見出し画像

ぼくたちは友達になれたのかもしれない

 戦争が終わった。独裁者の死によって終止符が打たれたのだ。街は戦勝を祝って華やいでいた。凱旋パレードが催され、帰還兵たちの上に花吹雪が舞い、歓声が響き渡る。暗い時代、戦争の時代が終わったのだ。そんな中、彼女は胸を撫で下ろした。夫が生きて帰ってくるのだ。見送る時には、もう二度と会うこともないかもしれないと覚悟を決めたほどだった。激戦地に行く、と夫は言っていた。帰りを待たぬよう、というのが夫の残した言葉だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」彼女は涙ぐみ、夫の胸に飛び込んだ。彼は妻をしっかりと抱き締めた。雑踏、彼らの他にも同じように抱き合う何組もの男女。それは絵に描いたように幸福な光景。しかしながら、もちろん、愛する者を亡くした人間だって無数に存在するのだ。
 ここで、「そして二人は末長く幸せに暮らしました。めでたしめでたし」となればいいのだが、そうは問屋が卸さない。
 彼女は帰って来た夫に違和感を覚えた。夫の何かが決定的に変化してしまっていたのだ。何が、と問われても答えることのできないような、それでいて決して微細な変化とは言えない決定的な変化。別に彼女を暴力を振るうようになったとか、塞ぎ込んだとか、夜中にうなされるとか、そういったことではない。それまで、戦地に赴く前までと、別段変わった振る舞いはない。それでも、何かが変わっているのだ。彼女はつい、ふとした瞬間に夫の顔をまじまじと見詰めてしまう。まるで間違い探しをするように。
「ん、どうしたの?」と夫が尋ねる。
「ううん、別に」と彼女が答える。
「変なの」と夫は笑う。
 戦場に行くというのはそういうものなのかもしれない、と彼女は自分を納得させた。彼女が足を踏み入れたことのない場所。人が簡単に死に、見ず知らずの誰かが自分を殺そうとする。自分が引き金を引くことで殺した誰かには、自分と同じように帰りを待つ妻がいたかもしれない。きっといただろう。腕の中で死んだ戦友にはまだ幼い子どもがいたかもしれない。彼らは父無しに育つのだ。憎悪と悲哀だけが渦巻く場所。彼女には想像すらできない場所。
 日々はそうして過ぎていった。夫は彼女に以前と変わらず優しく振る舞い、彼女は彼女で胸の奥の違和感をどうにか宥めていた。
 ある朝、二人はテーブルを挟んで朝食を摂っていた。トーストに目玉焼き、ベーコンを載せて。美しい朝だった。爽やかな風が吹き、庭の芝は陽光で輝いていた。鳥が囀ずり、子どもたちが駆けて行った。夫は食事の手を不意に止め、こぼすように呟いた。
「アイツの本棚には、ぼくが子どもの頃に好きだった絵本があったんだ」
「アイツって?」彼女は尋ねた。「誰のことを言っているの?」
 二人の間に沈黙が漂った。それはなにか不穏なものを感じさせ、彼女は夫がもう一度口を開くのを待ちながら、同時にもうなにも言わないでほしいと願った。子どもたちの喚声。彼女の夫は、ゆっくりと、躊躇うように口を開いた。そこから出てきたのは、忌々しい例の独裁者の名前だった。
「どうしてあなたがあの人の本棚のことを知っているの?」
「アイツを殺したのはぼくだ」と夫は言った。「ぼくは特殊部隊に所属していた。ぼくの任務はアイツの殺害だった」
「初めて聞いたわ」
「初めて言ったからね。誰にも言ってはいけない決まりなんだ。兄弟や親、鏡の中の自分にも。もちろん君にだって」
 夜更けに独裁者の邸宅に踏み込んだ。密偵によって、独裁者の居場所は調査済みだった。引かれた線をなぞるような作業。念入りに事前準備が行われていた。リハーサル。独裁者の邸宅を模したセット、まるで映画のセットのようなセットで繰り返し訓練がなされていたから、身体は自ずと動いた。まさにリハーサル。リハーサル通り、独裁者は自室にいた。部屋が急襲されたにもかかわらず、彼は身動ぎ一つしなかった。彼の眉間に照準を合わせ、引き金をひく。任務完了。たった一度きりの舞台は幕を下ろす。アンコールも、観客の拍手も無し。
「実に簡単な任務だった」夫は言った。「訓練の通りやっただけ、なにかを考える必要さえ無かった」
「あなたは英雄だったのね」と、彼女は自分の夫を惚れ惚れと見た。「戦争を終わらせた英雄」
「やめてくれ」と、夫は苦し気に首を横に振った。「ただの人殺しだ」
「あなたが彼を殺したから戦争が終わったのよ」彼女は言った。
「それでも、ぼくは人殺しだ。きっと、アイツは子どもの頃にあの絵本を読んでいたんだ。もしかしたら、ぼくとアイツが子どもの頃に出会っていたら、友達になっていたかもしれない。それも、仲のいい友達に。どこでなにが間違えてこんなことになったのだろう?なにかが狂ってるんだ。アイツもぼくのように絵本を読み、感動する人間だった。突然湧いて出た怪物なんかじゃなくて、子どもだったことのある、人間だった」
 彼女は想像してみた。出会う前の、まだ子どもだった頃の夫を。それは子どもの頃の独裁者の姿を思い描くのと同じくらい難しく、あるいは不可能だった。そんな二人が、仲良く遊ぶ様となれば、それはもっと不可能だった。
 食事を終えると、夫はいつもと変わらぬ様子で仕事に行った。そして、二度とその話はしなかった。


No.324

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?