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大統領死す

 この話に登場する大統領はよくあるような銃口を突きつけられる類いの大統領ではない。そういう野心や、横暴さ、強さ、タフさとは無縁の存在、それが今回語られる大統領だ。では、彼が聖人君子、非の打ち所の無い好人物、善政を行い、人々を導く偉大なる指導者かといえばそうでもない。彼が大統領の座に就いたのはひとえに彼の優柔不断、日和見主義、八方美人といった性質と、愚鈍であり、媚びへつらうことしか知らず、自分の意志というものが薄弱で、周囲に流されやすく、よく言えばお人よし、懐柔しやすい、悪く言えばキリがないが、あえて言えばバカ、アホ。
 そんな人間がどうして権力の頂点に昇りつめたかと言えば、そうした日和見主義で、自己を持たないことが大いに有利に働いたということはあるにせよ、一番の大きな要因は運、ひとえに運である。野心的な政敵たちはお互いの潰しあいや、追い落とし、スキャンダル合戦に精を出し、次々に政治生命もしくは生命を失っており、基本的にノーマーク、誰の関心にも上らなかった彼にその座が回ってきたという次第。ダークホースですらなく、馬であるとすら思われておらず、おそらくロバかヤギだと考えられていたのが彼であり、それが世間の一致した見解。就任の知らせに首をかしげる者多数。
「誰だ?それ?」
 実際、大統領官邸での彼のあだ名は「ポテンヒット」、しかも、彼自身が通りかかる時にその呼び名を使ってしまう者もいたが、その輩も顔色を変えないような有様、とてもではないが尊敬されているとは言えないし、逆に脅威を与えることもない、無風状態が彼である。
 彼はいま、大統領執務室の椅子に腰かけている。多くの者がそれに座ることを望み、そして叶わなかった椅子だ。そこにもたれかかっている。威厳のかけらもない、ただ疲れ切った男である。なにに疲れているのか?と問われたら、「人生に」と答えるだろう。多くの中年男と同じである。彼は大統領としての決断を下すような場面はほぼ皆無と言ってよかったから、その職責に疲弊することなどできない。彼の無能は彼自身を始め、すべてのスタッフが理解しているので、彼に何かの決断を迫ったり、意見を聞く愚か者などいなかった。そして、彼もそれでいいと思っていた。任期を全うし、願わくば恥ずかしくない退任をすることだけが彼の望みだった。
 執務室の扉をノックする者がいる。彼が招き入れるよりも前に扉は勢いよく開き、鋭い顔つきの若者が大股で入ってくる。彼は官邸のインターンとして採用された男であり、言わずもがなだが大統領よりも優秀である。若者はつかつかと大統領の前に歩み寄ると、紙袋をその目の前に置いた。無言のままである。あるいは、怒っているようにすら見える。いや、怒っている。怒っていて、それを隠そうとしない。大統領はその怒りに気づかない。いや、気づいているが、気づかないことにしている。気づかないことにしているのに若者が気づいていることには気づいていない。敏感かつ鈍感が彼の持ち味だ。
「ありがとう」大統領は若者に言う。若者は何も言わずに立ち去った。その背中は、自分のさせられた仕事に対する憤り「なんでオレがこんなことを?」が言葉よりも能弁な形で叫んでいる。
「君に頼みたいことがあるんだ。ただし、誰にも知られてはいけない」と大統領から言われて、少し舞い上がってしまったのは若者が若者であるから。手練のスタッフであればどうせ大したことではないだろうとタカを括って聞くところだろうし、それが正解だ。言いつかったのが子どもの食べるようなお菓子を買いに行くことだと聞いて、彼は憤った。これも彼が若者だからだ。もっと熟練のスタッフであれば、呆れるくらいが関の山だろう。そして、彼は与えられた任務をつつがなくこなし、大統領の前にはそのお菓子の入った紙袋が置かれている。
 なぜ大統領がそれを隠密裏に手に入れたかというと、彼はそのお菓子を医師及び妻に禁止されているからだ。一応健康のためということになっているが、その実はそれを美味しそうに食べるさまがあまりにもムカつくからである。大統領はそのお菓子を本当に美味しそうに食べる。その姿を見るのが妻は嫌いだ。そして、医師に働きかけ、禁止することにした。そうして大統領はそれをコソコソ隠れて食べることになったわけだけれど、妻としては所与の目的、大統領がお菓子を食べる姿を見ないことは達成されたので、禁止は成功と言っていいのかもしれない。
 大統領は嬉しそうに紙袋に手を伸ばすと、中のお菓子をひとつかみし、それを口に放り込んだ。至福が訪れるはずだったが、どうしたことかそれが喉に詰まってしまった。もだえ苦しみ、床に倒れ込む大統領、助けを呼ぼうにも喉が詰まって声が出せない。
 そして、そのまま死んでしまった。

No.120

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