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欠落

 兄は几帳面な人だった。子どものころから、机はいつも整理整頓されていたし、学校のノートもとてもきれいに書かれていた。それも、別に必死になってそうしているわけでも、強迫的ななにかがあるような感じでもなく、ごく当たり前に振る舞うとそうなるのだというみたいに、ごく当たり前にそうしていた。同じ血を分けたはずのわたしにはとてもではないが理解できないことだった。
 わたしはといえば、机の上はゴチャゴチャで、いつもなにかを失くして探していた。そんな子どもだった。
 兄はそんなわたしの探しものをいつも手伝ってくれたものだ。嫌な顔ひとつせずに。わたしが逆の立場だったら、きっとイライラして、嫌味のひとつも口にしただろうし、そもそも一緒に探したりもしなかったかもしれない。わたしにとっての兄は、穏やかで、優しい人だった。たぶん、誰にとってもそうだろう。成績優秀で、人望もあつい。両親の自慢の兄だった。
 そんな兄が、いなくなった。兄が上京して数年がたった夏のことだった。
 突然、兄と連絡が取れなくなった。夏の休暇をどうするのか確認するために電話したときのことだ。その前の年、兄は学校の課題が忙しいとかで帰省しなかった。だから、その年は是非にも帰省してほしいと、両親は兄に電話したらしい。ところが、それが通じないという。
「あんた、ちょっと様子を見てきてよ」と、母からわたしに連絡があったので。すぐにわたしも兄に電話をかけてみた。呼び出し音が鳴るばかりでいつまで待っても出ない。
 子どものころにはそれなりに一緒に遊んだりもしたけれど、それぞれそれなりに大人になってからは少し疎遠になっていた。たぶん、お互いをどう扱えばいいのか、持て余していたんだと思う。同じ街にいながら、しかも同じ学校に通っていたのに、別々の部屋で暮らしていたし、交渉はまるでなかった。兄の部屋を訪れたのは数回しかなかったから、わたしは住所を頼りにどうにかこうにかそこにたどり着いたのだった。
 呼び鈴を鳴らす。なんの反応も無い。もう一度呼び鈴を鳴らす。なんの手応えも無い。そこには誰もいないという、そういう手応えの無さ。もう一度呼び鈴を鳴らす。やはりなんの反応も無い。
 わたしは兄の部屋のドアノブをそっと握った。そして、それを回してみる。回った。鍵がかかっていない。ドアノブを回し切ると、わたしはそれをゆっくりと引いた。
 知らない部屋のニオイ。子どものころ、友だちの家に行ったときに感じたのと同じものを感じた。
「いないの?」わたしは小さな声で言った。玄関も、やはり整理整頓されている。カーテンが閉められていて、部屋は暗くてなにも見えない。
「入るよ」と言いながら、わたしは靴を脱いで部屋に上がった。廊下がきしみを上げる。なぜかとても悪いことをしているような気分になった。
 明かりのスイッチを手探りで探して、電気をつけた。兄の部屋は兄の部屋らしく整理整頓されていた。まるでモデルルームみたいだった。まるで生活感がない。
 ただひとつ、その調和を乱すものがあった。テーブルの上に、放り出されたみたいにノートが置いてあったのだ。わたしはそれを手に取った。
 それは、日記だった。そういえば、兄は子どものころから毎日日記をつけていた。
「まだ続いてたんだ」と、わたしはひとりつぶやいた。その日あった出来事が、几帳面な字で書かれている。特に変わったことのない日々がそこには書き記されていた。アルバイト、学校、研究室、そういう、ごく狭い範囲を、ぐるぐると回っているのが兄の日々だった。
 そうやってめくっていくと、突然ページのむしり取られているところに出くわしたのだ。それは力ずくで引きちぎられたのが明らかだった。日記の数日分が、欠落している。
 わたしの背後で、ドアが開いた。兄が帰って来たのだと思って、慌ててわたしはその日記を自分の鞄の中に入れてしまった。日記を盗み見ていたのがバレたら、さすがの兄でも怒るのではないかと、隠さなければと思って慌ててしまったのだ。なにか言い繕わなければ、そんなことが頭をよぎっていた。わたしは玄関を向き、兄に声をかけようとした。
 そこにいたのは、兄ではなかった。見知らぬ女の人が立っていた。「誰?」
 その女の人は、兄の恋人を名乗った。わたしにはそれが嘘だとわかった。
「日記が」と、その女の人は言った。「日記があったと思うんだけど」
「知りません」わたしは答えた。女の人はじっとわたしの顔を覗き込んだ。わたしはそれをじっと見た。
「嘘つきね」女の人は言った。「あなた、地獄に落ちるわ」
 わたしはそれを鼻で笑った。



No.967
 

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