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 全身から汗が吹き出した。熱帯の植物が溢れんばかりで、頭上からも覆いかぶさってくる。「温室はかなり暑いぞ」という彼の忠告に従って、上着は脱いでいたのだが、汗でシャツが肌に貼り付いた。わたしはネクタイをゆるめた。彼はランニングシャツに短パンのなりで、その服装からはとてもではないが彼が超一流の学者であることは窺い知れまい。
 学生の時分、彼の評判は変人、変わり者、良くて独特。友人は少なかった。というか、そもそも彼自身がそんなものを求めていなかったのかもしれない。友人の少なさにかけてはわたしも同様だったわけだが、わたしには彼のような非凡さは無く。ただただ人見知りで人嫌いであったに過ぎない。
 わたしと彼は学生寮で同室だった。学科は違ったのだが、ウマが合った。妙な話だが、互いに人嫌いだったことが幸いしたのだろう。無闇に干渉せず、適度な距離を保ったことで、わたしと彼は逆に距離を狭めた。趣味も嗜好もまったく違ったが、それでも無二の親友と呼べる友人同士になった。
 その付き合いは学校を出ても変わらなかった。学校を出たわたしは勤め人に、彼は学者に、昆虫学者になった。時が経ち、わたしはしがない勤め人に、彼は超一流の学者になった。卓越した論文を次々に発表し、新種の発見すらしてみせた。彼の名は一般の新聞にまで載ったほどだ。
「だから言わんこっちゃない」と、額に汗の玉を作ったわたしを見て彼は笑った。
「まさか、これほどとはね」と、わたしは腕捲りして額を拭った。「で、見せたいものとは何だね?」
「蝶だ」
 わたしが彼と知り合った頃から、昆虫の中でも蝶は彼にとって特別な存在であった。彼の昆虫に対する偏愛のきっかけは、幼い頃与えられた蝶の標本だったとかいう話だ。わたしたちの部屋には無数の蝶の標本があったものだ。 それは確かに美しく、彼を魅了するのもうなずけた。
 温室の奥に進むと、植物の大きな葉が途切れ、少し開けたところに出た。光に溢れている、とわたしは思った。色とりどりの光が瞬いていたのだ。目が慣れてくると、それが蝶であることがわかった。 極彩色に見えたのは、美しい蝶の羽ばたきがもたらしたものだったのだ。羽ばたくそれは、その動き、一瞬の動きで千変万化した。まるで明滅するかのようにキラキラと光った。心奪われるのに充分過ぎるほどの美しさだった。わたしはそれにしばし見惚れていて、彼に声をかけられるまで、そこに彼のいることを忘れていたほどである。
「どうだい、美しいだろう?」と彼は言った。
「ああ」とわたしは目を細めながら言った。「この世のものとは思えんほどだ」
「ふふ」と彼は笑いをもらした。「確かに、これはこの世のものとは言えないかもしれない」
「どういうことだね?」
「こいつらは、わたしの手で作り出されたものなのだよ。品種改良もしたし、遺伝子の組み替えもした。とにかく、ありとあらゆる手段を使って、美しい蝶を作ったのだ」 彼はこともなげに言った。おそらく、凡百の人間には逆立ちしてもできない芸当だろう。それは素人でもわかった。
「そんな労作ならば、人々に知らしめせばいいものを、なぜこんなせまっ苦しい温室なんぞに閉じ込めているのだね?」
 すると彼は首を横に振った。「こいつらはここの、この温度、湿度の中でしか生きられないのだ。外気に触れると、この鱗粉は燃えてしまうのだ。まだまだ改良しなければならんのさ」
 わたしと彼はしばしそれに見とれていた。
 それから数日、わたしは新聞に彼の名を見つけた。それは一般紙だったから、また何か大きな発見をしたのかと思ったが、それは彼の訴えられたという記事だった。研究費を私的に使い込んでいたというのだ。それも、生半可な額ではない。じきに逮捕されるかもしれないということだった。 金はおそらくあの蝶を作り出すために使われたのだろう。昔から金銭感覚には難のある男だった。そうした現実的な一切を苦手にしていた。彼であれば、欲望のまま金を使うだろうし、彼であれば、それの露見しないように工作することなどできないだろう。
 あるいは、わたしを呼んだのは助けを求めるためだったのかもしれない。
 わたしは一も二も無く、彼のもとへ駆け付けたかったが、しがない勤め人にはしがないとはいえ仕事があり、夜まで体が自由にならなかった。
 自由になると、わたしはあの温室へと急いだ。彼はそこにいるに違いない。 他のどこを探すまでもない。
 たどり着いた温室は、その窓が破れていた。そこから、火の粉が漏れていた。それは蝶たちだった。彼の作り出した蝶たちだ。蝶たちは、外気に触れその鱗粉を燃やしながら、夜空を舞っていた。それは実に美しい光景であった。わたしはしばらくそれに見とれていたが、涙が溢れるので我に帰った。きっと、彼はもう生きていまい。

No.118

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