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わたしは彼を殺さないことにした

 わたしは彼を殺さないことにした。
 彼を殺すのに十分な理由はあったし、確かに彼がその腕力に訴えればわたしなど一ひねりだったかもしれないけれど、状況的にわたしの方が圧倒的に有利で、しかも致命的な傷を負わせられる武器までわたしは手にしていた。さらに幸運なことには、殺人を犯したところでわたしが逮捕されることも、裁かれることもないのだ。
 政府は瓦解し、無政府状態になっていた。それは大木が切り倒されるのに似ていた。少しずつ傾き、倒れるかもしれないと思った瞬間には加速度的にその傾斜は増し、声を出す時間も無いほどにあっという間にそれは倒れた。あるいは、既にその根元が腐っていたのかもしれない。汚職や嘘がまかり通っていたのだ。緊急事態にも無力で無能をさらし、毒にも薬にもならないならまだしも、毒にしかならないなら、無い方がいい。多くの人がそう思っても不思議はないだろう。そして、それは実際無くなった。政府は無くなり、法律も、警察も、裁判所も無くなった。わたしが彼を殺したところで、誰も、なにも、わたしを捕まえないし、裁きもしない。
 それでも、わたしは彼を殺さないことにした。最初は殺そうと思っていた。いや、殺したいと思っていた。彼がわたしにした仕打ちを考えれば当然だろう。多くの人は彼は殺されてしかるべきだ、それが言い過ぎでも、殺されても仕方ないと思うことだろう。それでも、わたしは彼を殺さないことにした。
 わたしは想像した。彼にも彼を愛する誰かがいるのかもしれない。彼の死は、その誰かを悲しませることだろう。あるいは、悪辣な彼のことだ。誰ひとり、その家族や親類ですら、彼を憎んでいるかもしれない。わたしにはわたしを愛してくれる人たちがいる。彼のわたしに対する仕打ちは、わたしを愛してくれる人たちをも悲しませたわけだけれど。
 わたしはまた想像する。そんな彼でも、生まれたばかりの頃には無垢な赤ん坊だったのだ。まだ羊水に湿った体を、慈愛に満ちた母親の胸に預けたかもしれない。それは幸福な光景だ。そこに挟まれる異論はないだろう。もちろん、悪辣な彼の母親もまた悪辣で、赤ん坊である彼をただ産み落としただけという可能性もあるけれど。そしてもちろん、わたしの母は、彼のわたしへの仕打ちを知り、我が事のように嘆き悲しんだことは言うまでもないだろう。
 こうして想像したところで、わたしが彼を殺さない理由にはならなかった。わたしの彼を殺そうという意志はそれほどまでに強力で、赤ん坊の彼が目の前に横たわっていたとしたら、それを踏み付けて殺してもおかしくないくらいだった。それでも、わたしは彼を殺さないことにした。矛盾するかもしれないけれど、わたしは彼を殺さないことにした。
 武器を手にしたわたしを見上げ、彼は命乞いをした。それはわたしが彼を殺さなかった理由ではない。わたしが彼を殺さなかったら差し出すといったあれこれ、物資や食べ物、水などが、わたしが彼を殺さなかった理由ではない。法律や警察はすでに無かったから、それも彼を殺さなかった理由ではい。倫理観がわたしの体のどこかに残っていたのか?いや、それもわたしが彼を殺さなかった理由ではない。同情した?違う。彼の立場を自分に置き換えた?それも違う。どれもわたしが彼を殺さなかった理由にはならない。
 わたしの目の前には、間違いなく人間がいた。彼という人間がいた。紛れもない人間。わたしのことを虫ケラのように扱った彼は人間だった。わたしは驚いた。そこに人間がいるのだ。わたしを虫ケラのように扱ったのは、人間なのだ。
 だから、わたしは彼を殺さないことにした。彼が人間だったから。虫ケラのようにも扱えた。蟻を潰すみたいに、彼を殺すこともできただろう。だからこそ、わたしは彼を殺さないことにした。彼を虫ケラのように殺したら、わたしを虫ケラのように扱った彼と同じになってしまうから。軟弱な考え方かもしれない。法律も、警察も無い混沌とした世の中では、こんな考え方では生き残れないかもしれない。わたしは彼を虫ケラのように殺すべきだったのかもしれない。
 もしそれが正解だったとしても、わたしはそれを拒否しよう。わたしの目の前に現れる人すべて、人間なのだ。そうして、わたしが滅びるようなことがあったとして、どうして後悔することがあろうか。

No.238

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