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いかれた君はベイベー

 夜、犬の散歩をするのがぼくの役目なのは、君も知っての通りだと思うけど、うちの犬の名前が犬なのはたぶん言ってなかったんじゃないかと思う。どうでもいいけど。ちなみに、朝に犬の散歩をするのは弟の役目だ。これは公明正大に決められた。ぼくが朝寝坊で、無理やり弟に朝の役目を押し付けたわけじゃない。ぼくはフェアな人間だし、第一、弟はちょっと年上の人間がなにか言ったらそれに唯々諾々と従うような、そんなやわな奴じゃない。
 まあ、いい。
 ちょうど春の気持ちの良い夜で、こんな夜には犬の散歩なんかせずにあまりまだお互いのことを知らない女の子とおしゃべりしながらブラブラ歩きたいな、なんて考えていた。別に、ぼくはそんなに知らない女の子とデートするのが好きなわけじゃあない。でも、そういうお互い手探りでする会話ってワクワクするし、それが気持ちの良い夜ともなれば格別だと思わない?
 そんなことをぼんやりと思いながら、犬はリードをグイグイ引っ張って、自分のお気に入りの電信柱にマーキングをしていく。おそらく、犬にとってはそれは一大事なんだろうと思うけれど、ぼくにはその気持ちはよくわからない。
 そんなもんだろう。
 ちょっと暗い小道で、ぼくはいつもここを通る時には早足になるのだけれど、なにかが唸るような声を聞いた。前に一緒にみたあの映画に出て来る黒くて鋭い牙を持つ獣が、どこかの暗がりにでも潜んでいるのではないかと、そんなありもしない妄想がぼくの頭に浮かぶ。ぼくの心臓は飛び上がった。そんなぼくの心臓になんかお構いなしで犬はその音のする方へとグイグイ行く。君も知っての通り、ぼくの犬はちょっと空気の読めないところがあって、そこが可愛いけど、たまにすごくムカついたりもする。この時はムカついた。ぼくがその場からさっさと立ち去ろうとするのになんて、全然気づかないのだから。
 そうして、犬がグイグイ行った先にいて、唸り声をあげていたのは、二匹の猫だった。猫たちが街路灯の照らし出す光の中でにらみ合い、毛を逆立てながら唸っていた。それは真剣そのものと言った様子で、それはそうだろう。猫たちにしてみればきっと一大事なのだから。でも、犬にとってはそんなの全然関係ないわけで、犬はきっと猫たちと遊べるものと思ったんだろう、それこそ飛び掛からんばかりの勢いで近寄って行った。驚いたのは猫たちだろう。お互いに集中し、いつ飛び掛かろうか、いつ飛び掛かられるかと間合いを見ていたのが、急にわけの分からないやつが飛び出してきたのだから。驚いた二匹は散り散りに逃げていった。まあ、あるいは、その二匹がケンカせずに済んだのはそれはそれでよかったのかもしれない。ケンカをすれば、きっと無傷では済まないだろうし、もしかしたら死んじゃうかもしれない。
 そんなことがあった。
 ぼくはそれを君に話したいと思った。なんてことないけど、なんてことないけど話したいと思った。なんてことないことを話せるのって、大切だと思わない?生きてるって、だいたいはなんてことないことの積み重ねだから。だから、それはぼくのとても生きてるって感じのなんてことないことで、だからこそそれを君に話したかった。
 そう思ったときに、君はもういないことを思い出した。
 悲しい夜だ。
 君のことを思わない時が無いから、君がいないことをつい忘れてしまう。
「あの花が好き」と、君が言ったから、ぼくはその花が好きになった。
「あの鳥の鳴き声が好き」と、君が言ったから、ぼくはその鳥の鳴き声が好きになった。
「空がきれいだと思わない?」と、君が言ったから、ぼくは空が美しいことに気がついた。
「きれいな月が出ているよ」と、君が言ったから、ぼくは夜空に浮かぶ月が美しいことに気がついた。
「気持ちの良い風だね」と、君が言ったから、心地い風と言うものがあることを知った。
 君がいなければ、ぼくは何も知らないまま、ただただ生きているだけだっただろう。もしかしたら、それでもいいのかもしれないけれど、そうじゃないことを知った今となっては、そのままだったらと思うとぞっとする。
 君はいかれてた。だって、こんなことを言うんだもの。いかれてなけりゃおかしい。
 君は言った。「あなたのこと、好きだよ」
「誰の事?」
 君は笑った。「あなただよ、あなた」
 君はいかれてた。じゃなきゃ、そんなことは言わない。それまで、ぼくはそんなことを誰にも言われたことが無かったから、どうしたらいいのかわからなかった。
「いかれてるね」
「そうかも」と、君は笑った。
 君が好きだと言うから、ぼくは自分のことを好きになってみようと思ったんだ。


No.492


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