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愛なき世界

「死ぬってなんですか?」という質問が飛び出したのなら、それは哲学的な問いかけと思われるかもしれないが、これはいまよりも遥か未来の話、科学技術も倫理観もいまよりもずっと進歩した世の中でのことであり、その頃には「死」は克服された過去の遺物であり、もう何千年にも渡って「死」を目にした者はいなかったから、それは純粋に「死」とはなんなのかという問いかけであり、問われた者としても実物のそれは見たことがなく、知識としてのそれを説明することができない、という世界でのことである。
「死とは生命活動が停止することです。心臓が止まり、血流が停止することにより、脳が活動をやめます。ホメオスタシスが失われ、肉体は分解されていきます」
「そうなると、その人はどうなっちゃうの?その人の心は」
「なくなります」
「なくなる?」
「ええ、なくなります。無です。完全な、無」
 それは人に恐怖を催させるに充分な情報である。それはいつの時代も変わらない。誰にでもあるだろう。眠りにつく前、「このまま死んでしまって、目が覚めなかったらどうしよう」と思ったことのある人は多いだろう。違うのは、その世界には「死」が無いこと。そして、その人はホッと安堵の息を漏らすのだ。「昔の人たちは死んじゃうなんて可哀想だな」。そして、なにも怖れることなく眠りにつくのだ。
 ちなみに答えたのはAIである。遥か未来の話だ。AIが答えた方が未来っぽい。矛盾?まあ、いいじゃないか。
 科学技術の進展は多くの病を駆逐した。些細な風邪すらも姿を消した。もしも病の側から物語を作ったとしたら、それは破滅への道をまっしぐらに進む悲劇となっただろう。超科学を持った宇宙人が襲来し、地球を侵略する物語のような。人類は無慈悲にウイルスや細菌を駆逐した。
 ウイルスや細菌に端を発さない体調不良に関しても、体内に入れられたナノマシンが早期に異常を発見し、対処、修復され、修理されるようになった。脳の血管が詰まる前に対処される。栄養補給に関しても革新的な技術、現在から見るとやや倫理的とは思えないものだが、それの導入により、そもそもドロドロの血液とか、高血圧とか、糖尿病とかも存在しなくなった。「血がドロドロですよ」と脅かしてやる商売もあがったりである。
 未来なので当然のことながら空飛ぶ車がビュンビュン行き交っているが、それらは全自動で運行されている。人間はそれに乗って運ばれるだけだ。事故は起こらないから、それで命を落とす者もいない。
 遺伝子工学は寿命というものを無くした。遺伝情報はどんなにコピーを繰り返しても摩耗せず、正しい複製をし、いつまでも若々しい肉体を保つことができた。不老不死である。生老病死、あるのは生だけだ。釈迦が悟りを開くきっかけも生まれない。誰も死なない世界。結構じゃないか。
 青年(永遠の青年である)は、自分の何千回目かの誕生日パーティーの翌日の朝、自分が愛を知らないことに気づいた。目覚め、ベッドから身を起こし、自分の部屋を見渡す。前夜のどんちゃん騒ぎの痕跡はそこには無い。召使いロボットがすべて片付けてしまっているからだ。あるのは微かな祭りのあとの気配。それもすぐに消えるだろう。そこには彼の恋人も来ていたし、性的な接触さえもあった。それでも、自分は愛を知らないのだ、と彼は思った。
 彼は未来の通信手段で恋人に連絡をした。間違っても受話器を取ってはいけない。これは未来の、それも無茶苦茶進んだ未来の話だ。
「ねえ」と彼は言った。「もしもし」という呼びかけは絶滅している。「君は愛を知ってる?」
「知らない」と恋人は答えた。「だれ?それ?」
「人じゃない」
「なに?」
「ものでもない」
「知らない」
「そう」
「通信終わり?」
「そうだね」と青年は言った。別に悲しくもなかった。たぶん、誰に尋ねても同じ返事だっただろうと青年は思った。誰も、もう愛など覚えてはいまい。青年は自分がいつから愛を知らないのか思い出そうとしたが、ちっとも思い出せなかった。そして、翌月の恋人の誕生日のことを思い出した。スペシャルな企画を用意しなければならないだろう。そして、性的な接触をし、眠りにつく。
「愛を知ってる?」彼はAIに尋ねようかと思ったが、やめておいた。そう尋ねれば、自分はひとつの死を目にする予感がしたからだ。愛という言葉の死を。



No.134

 

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