見出し画像

神様を棄てる

 父は熱心な信徒でした。悪く言えば、狂信的ですらあったかもしれません。当然ながら、父はわたしたちにもその教えを信じることを強いました。わたしには無理強いのように思えました。姉はそう思わなかったのかもしれませんけれど。姉も父と同じ道を歩んだからです。姉も父同様、そして、熱心な信徒となりました。姉は今も教団にいます。
 わたしは、その教えが信じられませんでした。だから、そうするのに充分な年齢になると、わたしは家を出ました。
 たぶん、わたしも姉も、父の血を色濃く受け継いでいるのでしょう。わたしたちの中には名状しがたい強烈な力があったのです。ただ、わたしたちのその強烈な力の向かう先が違う、あるいは正反対だというだけのことだったのだと思います。姉は信じ、わたしは信じないということを信じた。
 わたしは早い段階で家を出て、それからは、家族とは疎遠でした。ほとんど手紙も出しませんでしたし、電話もしませんでした。おそらく、父はわたしからの連絡などほしくなかったと思います。父にとってわたしは、裏切り者に他ならなかったのですから。それはたぶん獣を見る感じに近いのだと思います。父をはじめとして、熱心な、狂信的な信徒たちは、自分たちの信じるものを信じない者を、自分たちよりも劣る存在として見ているふしがありました。時代が時代なら、宗教戦争を起こし、異教徒に改宗を迫ったことでしょう。そして、それが受け入れられなければ、なんの躊躇いもなくその人を殺したに違いありません。蟻を踏み潰すみたいに。信じられないかもしれないけど、信じるとはそういうことなのです。
 教えから離れたわたしが、それから自由になったかと言えば、そんなことはありませんでした。戒律で禁止されている食べ物や飲み物はどんなに頑張っても喉を通りませんでした。まるで見えない壁にでもぶつかったかのように、わたしはそれをやりすごすことができないのです。つい祈りの言葉を口にしそうになることも度々でした。自分が堕落したと感じるときにはいつも、わたしはあの方の目を気にしていました。そして同時に、父の目も。どんなに気にしまいとしても、それはわたしに既に埋め込まれたものだったのです。
 わたしの求めた平凡な生活。レジ係、給仕、電話受け付け、様々な、と言っても、学の無いわたしでもできる仕事の数々は、長続きしませんでした。少しでも人と関わりを持たなければならないということはわたしには苦痛でした。わたしは掃除婦になりました。それならば、人と関わり合いにならずにすんだからです。
 わたしは孤独でした。孤独は否応なしにあの方とわたしを対峙させました。夜、寝床に潜り込み、眠ろうとすると、わたしはあの方のことを考えるのです。わたしは赦されるのかどうかを。そうして眠れなくなるという晩が、幾夜も続きました。
 わたしが人を殺したのは、そんな夜に終止符を打つために他なりません。人を殺めても、罰されないということを自分自身に納得させるためです。もちろん、社会的な制裁を受けることはわかっていました。現に、わたしは今ここでこうしているわけですから。しかし、これはわたしにとっては罰ではないのです。わたしを罰することができるのは、あの方以外にいないとわたしは考えていました。そして、人を殺めるという破戒を犯しても、わたしは変わらず生きているのです。あの御方などいないと、その時わたしは考えました。わたしは自由なのだと。
 しかし、その自由は束の間でした。わたしは間抜けです。罰はまだ下っていないだけかもしれないではないですか。またわたしは、幾夜も眠れぬ夜を過ごしました。あの方が、わたしに責め苦を負わせるのを、舌なめずりして窺っているのを想像して。
 一度だけ、父が面会にやって来ました。父は人が変わっていました。変わったよう、ではなく、本当に変わっていたのです。父は言いました。
「神がいるから信じるのではなく、信じるから神がいたのだ」
 父は教えを棄てていたのです。わたしは父がなぜ教えを棄てたのか尋ねませんでした。
 もう済んだことですから。


No.435


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?