ARBEIT MACHT FREI

 鉄の扉が閉ざされ、錠の下ろされたその一連の音は、断頭台で刃が落ちる音に似ていたのではないだろうか。そのもたらす結果が、性急か、それとも緩慢かの違いはあるにせよ、起きたこと、あるいは起きることは同じなのだから。
 と言っても、そんな音に注意を払う者はいなかっただろうし、その類似性に気付く者もいなかった。緩慢であるが故に、希望を殺すことはできない。緩慢な死は、希望を殺せない。否、緩慢な死は、死を悟らせないだけだ。気づかないうちに、希望は死んでいるだろう。それのあったことにも気づかないうちに。
 そこに収容された人々がどのような出自を持っていたのかはわからない。わかるのは、その人々はそこに収容され、そして過酷な環境と苛烈な労働が彼らを待っているということだけだ。
 彼ら自身に、その時わかっていたことはもっと少ないだろう。彼らはなぜかそこに連れてこられ、そこで何が待ち受けているのかを知らなかった。もちろん、噂は耳にしていた。そこで待ち受けているのは死であると。しかしながら、誰一人としてそれを自分に関することとしては捉えていなかった。むしろそれは隣でうなだれている人間に向けられた。不思議なもので、人間は自分が死ぬのだということを理解するのが苦手である。彼は自分の隣の人をみて、この人間はここで命を落とすのかもしれないな、と思う。逆の立場でも、同様のことを考えているなどとは露知らず。
 収容所は高い壁に囲まれ、ご丁寧なことにその上部には有刺鉄線が張り巡らされていた。等間隔に見張り台が設置され、昼夜を問わずライフルを持った兵士が威圧的に警備をしていた。誰一人、そこから出さないように。それは監獄のようであったが、彼らの誰一人として罪びとはいなかった。少なくとも、人の手によって裁かれるべき、法を犯すようなことをしてはいなかった。彼らにはなんの咎もなく、彼らがそこにいるのは彼らが彼らであるという、ただそれだけの理由からであった。
 人々に用意された環境は最悪だった。宿舎としてあてがわれた建物は、古い倉庫を改築したもので、雨漏りとすきま風がひどく、とてもではないが人の住む所ではなかった。しかし、不満は言えない。不満を言った者もいたが、別室に連れ去られ、そのまま帰って来なかった。しばらくすると、不満を言う気力も削り取られた。毎日の過酷な労働が、人々を磨り減らし、何かを言おうなどという気持ちにはならなくなってしまっていたのだ。食事は犬の餌よりもひどく、それでもあるだけましだ、と感じさせるほどの量しかだされない。人々は痩せ細り、ゴツゴツした関節が浮かび上がり、あばら骨の間に汚れがたまるようになった。髪は抜け落ち、目は落ち窪んだ。誰も彼も餓鬼のような様相を呈していた。
 過酷な労働の中で、怪我をする者も多かった。怪我をした者に対する手当はされなかった。そもそもそこには医務室はなかったのだ。怪我をした者、病気を患った者は、そのまま放置された。どのみち次から次へと働き手となる人は運ばれて来る。わざわざ治してやることはない。
 そんな環境だ、人々はバタバタ死んでいった。墓穴を掘るのに労働力の半分までを割かなければならないくらいに。それが面倒になったのだろう、しまいには大きな穴を掘って、そこに死んだ者をただ放り込むだけになった。そこにどんどん死体が積み重なり、満杯になったらガソリンを撒いて火を放つ。髪の毛がパチパチと音を立てながら燃え、肉の焼ける臭いが辺りを満たす。最初、人々はそれに吐き気を催していたが、いつしかそれに慣れてしまった。黒い煙が上がった。それは濃い密度で、手で掴むことのできそうな煙だった。
 煙は高い壁も、有刺鉄線もものとはせず、軽々と越えていった。ライフルを持った兵士たちも、煙にはただ見送ることだけしかできなかった。そして、煙は壁を越えて外へと流れ出た。自由になったのだ。いくつもの川を越え、山を駆け上がり、海を渡った。そうして黒い煙が世界を覆った。
 世界はあまりにも罪深かった。


No.491


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