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おもいびと

 祖母には想う人がいたそうだ。まだ祖母が若い頃の話。その人は、祖父とは別の人だという。それを聞いた時、なんだか小説か映画でありそうな話だな、と思った。しかし、それはわたしの祖母の話であり、祖父はわたしの祖父だった。小説でも、映画でもない、わたしにまつわるお話。
 わたしの家族は、父の転勤の関係で引っ越しが多かった。全国様々なところへ赴き、そこで数年を過ごす。そして、また別の土地へ。それに伴って転校も多かった。じきにまた転校するとわかっていながら、友達を作ることは難しかった。もしかしたら、これは言い訳に過ぎないかもしれないけど。もともとわたしは人づきあいが苦手だった。
 祖父母とは一緒に暮らしていなかった。彼らは彼らの家を持っていて、そこで二人で暮らしていたからだ。首都に程近い地所で、地価の高騰した折りには売ってくれないかという申し出が数限りなくあったそうだが、二人は決して首を縦には振らず、そこに住み続けた。
 わたしが進学した学校は首都の学校だった。わたしは親元を離れ、一人暮らしを始めることになった。
 その頃には、祖父はすでに他界していて、祖母は一人で暮らしていた。父と母は一人で暮らす祖母を心配していた。そこで近くに住むわたしが時折様子を見に行くという取り決めになった。アルバイトをする時間が無くなると不平を言うと、仕送りの額が少し上積みされた。現金な話かもしれないけど、アルバイトをするよりもその方が楽なので、それはわたしに有利な話だった。
 わたしは週に一二回、祖母の家に行き、買い物や掃除などの簡単な用事をこなし、あとはだいたい祖母の話相手になっていた。祖母は足腰もしっかりしていたし、耳は少し遠くなっていたけれど、料理は自分でしたし、洗濯や掃除もすべてこなした。わたしが手伝おうとするとむしろ足手まといの邪魔者になるほどだった。老眼鏡をかけて毎朝新聞を読み、テレビでバラエティ番組を見て大口を開けて笑っていた。
 祖母とは当たり障りのないことばかりを話していたように思う。たいていは天気のことだ。人づきあいの苦手なわたしに年の差のある祖母の話の相手となると至難の業であることは言うまでもないだろう。
 その日も、いつものように用事を済ませ、祖母と向かい合っていた。天気の話をし、学校の様子について尋ねられ、適当にそれに答えていた。そこで、不意に、わたしの恋の話になった。好きな人はいるのか、と尋ねられたのだ。その時のわたしの恋は、込み入っていて人様に聞かせられるようなものではなかったから、いない、と答えておいた。ある部分では、自分にそう言い聞かせていたように思う。いない、と自分に信じ込ませた方が幸せになる恋。でもこれは別の話だ。これは祖母の恋の話。そして、祖母は自分の想い人の話を始めたのだ。
 その人と祖母は、互いに想い合っていたという。目の前にちょこんとすわるしわくちゃのお婆ちゃんに、そんな少女時代があったことを想像するのは少し難しかった。いや、頭では理解できるけれど、わたしにとって祖母はわたしが生まれた時からお婆ちゃんなわけで、どうにも少女である祖母を想像できなかったのだ。でも、それは確実にあったことだ。わたしがわたしであるように、まだ若くて、子どもも、当然孫もいない、恋をする少女が、そこにいたのだ。その人の姿を認め、胸をときめかせる乙女が、間違いなくいたのだ。しかしながら、時代が時代だったから、親の言う相手と一緒にならなければならなかったというのだ。
「よくある話よ」と祖母は言った。
「そうね」と、わたしは答えた。
 しばらく沈黙が続いた。時計の針の音がやたらと大きく聞こえた。
 沈黙を破ったのはわたしだった。
「幸せだった?」と、わたしは尋ねた。
「そうね」と、祖母は答えた。そう答えただけで、あとは何も言わなかった。
 その帰り道、わたしは無性に誰かに会いたくなったけど、誰にも会わないことに決めた。もうやめよう。それがいい。
 いくつかの可能性があって、その中のひとつが選ばれたり、選ばれなかったりして、その果てにわたしがいたり、いなかったりする。わたしが何かを選んだり、選ばなかったりしたことは、どんな未来につながっていくんだろう。そして、その時が来たら、祖母は誰の名を呼ぶのだろう。わたしは誰の名を呼ぶのだろう。

No.271

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