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人生

 あるところに男がいた。男は漁師をして口に糊していた。男は魚を獲ることが好きで漁師になったわけではなかった。男の父親も、祖父も漁師であり、男は自然と漁師という職業を選んだだけだった。男には漁師が職業であるという認識すらなかったかもしれない。それは生業であり、職ではなく生の一部である。となると、それは選ばれるものではなく、所与のものなのだ。そこには個人的な好悪が差し挟まれる余地はない。我々が好むと好まざるに関わらずホモサピエンス・サピエンスであるのと同じように。
 彼は別に魚を獲ることが好きではなかったが、良い漁師であった。幼い頃から父親や祖父と共に舟に乗って魚を捕っていた。天候と潮目を読み取り、魚の群れがどこにあるのかを直観的に掴み取った。野生の暗号解読者である彼にはそれは造作もないことであった。この比喩は適切ではない。そこにあるものは暗号よりも複雑で、骨の折れるものだ。気難しい老人の機嫌を取る、と言った方が適切か。いや、それも適切ではないのかもしれない。どんな比喩もそれは拒むのだ。それは自然と向き合うことであり、つまり自然に包含されることであり、それは自然の前に膝まづくことであり、まさに生なのだ。
 彼はそうして自然の中で自然と共に生きた。魚を取り、それをある場合は金銭と、ある場合は農作物などと交換した。妻をめとり、その間に幾人かの子供をもうけた。子供の中でも男の子は、男の幼い頃同様舟にのって漁に出た。そうして、いつかまた、男のように漁師になるのだろう。
 あるところに男がいた。男は漁師だった。男は生きていた。
 また別のあるところに別の男がいた。男はある物について魅力的な言葉を添え、美しい絵や写真でそれを彩ることで口に糊していた。つまり広告である。男は広告を作った。それが男の仕事だった。学生の頃には文学を学んだ。喫茶店で友人たちと文学について語り合った。よくあるように、世の中を斜に構えて見て馬鹿にしていた。学校を出ると、男は広告の会社に勤め始めた。そこが男を採用したからだ。男は何らかの仕事をして金を稼ぐ必要に駆られていた。金が無くては住む場所も食べるものも手に入れられないところに男は生きていた。全ては金と交換された。男の生の時間もその対象であった。それは男が馬鹿にしたことであったが、男はそうして生きた。歳を取るにつれて、男は嘘が巧くなった。他人に対してもそうだが、何よりも巧くなったのは自分に対しての嘘だった。男は完璧に自分を騙した。自分のやっていることは、ある部分では意味のあることであり、有意義なことであると、自分自身に信じ込ませることに男は成功していた。
 男はその技術で広告を作った。それはある部分では有意義な物なのだ。その広告を見た者は、そのある意味での誠実さに捉えられた。その広告で宣伝される物が、全面的に有意義だと信じ切るほど、世の中は愚かではなかった。場合によっては、愚かでないことは幸福でないことを意味するのかもしれない。
 男はその仕事でもそこそこ成功し、適当に家庭を持ち、家を買ってそこで暮らした。子供たちは成長し、彼らの好きな仕事、もしくは好きでもないがとりあえずやる仕事に就くだろう。男はそれについて取り立てて何かを言うことは無いだろう。
 あるところに男がいた。男は広告を作っていた。男は生きていた。
 この二人の男たちは、それぞれの生をそれぞれ生きて死ぬ。二人が会うことは無い。二人の生きている場所が離れていることもあるし、生活の様式が違うこともその要因かもしれない。しかし、その最大の要因は、たまたま、である。二人はたまたま出会わなかった。場合によってはたまたま出会ったかもしれない。そうなったとしたら、どうなったか、それはわからない。もしかしたら友人同士となったかもしれないし、そうならなかったかもしれない。それはわからない。二人は出会わなかったのだから。
 二人は生きた。お互いの存在など知ることなく。


No.247

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