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世界の果ての歯車たちへ

 ぼくは歯車だ。全体の中の一部、部分、些細で見向きもされない小さき存在。大いなる、偉大なる全体から見れば存在しないのと同様の存在。しかしながら、それは全体にとって欠かせないなにかであるはずだ、と、ぼくは思っている。信じている。ぼくという歯車を欠けば、偉大なる全体は機能しないはずだ、と、ぼくは信じている。歯車と歯車が噛み合い、そしてその歯車がまたべつのはぐるまおと噛み合い、それが続いていき、はじめは小さな力だったものが大きくなり、全体を動かしている。ぼくはそう信じている。それが小さな歯車であるところのぼくの矜持である。
 君もまた、歯車だ。ぼくと同じ歯車。卑小で、顕微鏡でもなければ全体からは見えないほど小さな存在。しかしながら、欠くことのできないなにか。
 その全体の片隅で、君とぼくは出会った。全体は常に動いていた。どこかしらにメンテナンスがあるときでも、他のセクションは動きを止めない。そうして、どこかに不具合があればそれを他で補い、全体として止まるということは決してない。
「もしも止まってしまえば」と、ぼくの班長はいつも言っている。それこそうわ言のように。「どうなってしまうかわかるか?」
「どうなってしまうんですか?」ぼくは尋ねる。とはいえ、その問答は何万回と繰り返されてきたものなのだから、答えはすでにわかりきっているのだ。それでも、ぼくは真剣そのものといった感じで尋ねる。
「それはもう」と、班長は言う。「大変なことになる」
「それは大変ですね」と、ぼくはいつも答える。そうすると、班長は実に満足そうな顔になる。班長の機嫌を損ねるのは得策ではない。もしもそんなことになれば、不当な扱いだと申し立てのできない程度に嫌がらせをしてくることに違いない。
 ある日、急な不具合が出たセクションがあり、そこの補充要員としてぼくが派遣されることになった。
「君が抜けると」と班長は言った。「我々としては困るけれどね」皮肉だ。常日頃から「いなければいないでなんとかなる」と言っている口で言われてもなんの説得力もない。
「ほんの一週間です」ぼくはそれだけ言って、持ち場を離れた。
 そして、そこで君と出会った。君もまた歯車であり、歯車的な容貌をしていたし、歯車的な思考をしていた。少なくとも、その時のぼくの目にはそう見えていた。
「こんにちは」と君は言った。
「こんにちは」ぼくは言った。
 歯車であるぼくと君は、歯車として働いた。淡々と、黙々と、実に歯車的に。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
 実に歯車的。ぼくと君はまるそれが物理法則であるかのように言葉を交わす。歯車の歯はそういう言葉のひとつひとつだ。「お疲れさまです」「ありがとうございます」「申し訳ありません」「おはようございます」そういう、心も感情も伴わない言葉のやり取りを、ぼくと君もしていた。まあ、そういうものである。そうして、ぼくがそこに派遣されている一週間が過ぎようとしていた。
 最終日の、就業時間間近になって、君はぼくの直ぐ側に近づいてきた。君が持ち場を離れていることにすぐにぼくは気づき、そのことで君が咎められやしないかと気が気でない。そのセクションの班長が近づいてくる。ぼくの本来所属するセクションの班長と同じくらい陰険な人間だ。一週間だけの付き合いでもそれがすぐに分かった。あの手の人間でしか、班長にはなれないみたいだ。君が陰険に咎められるのを見るのは忍びなかった。他人のことだ、それもその日までの付き合いだ、と考えることもできるだろう。事実そうなのだ。ほんの数十分後には、ぼくはそこを離れ、また訪れることがあるかはわからない。かなり可能性は少ないだろう。
「班長がくる」と、ぼくは小声で君に忠告した。これは歯車的連帯意識からなされたことだ。歯車同士、助け合うべきだと、ぼくは思ったのだ。「持ち場に戻ったほうがいい」
 君は少し後ろを振り向き、班長の姿を確かめた。「戻ったほうがいい?」君は言った。
「ああ」と、ぼくは答えた。「戻ったほうがいい」心のなかで、ぼくは少し苛立っていた。
「本当に?」と、君は言った。ぼくの目を覗き込んだ。ぼくはそれをじっと見つめた。班長が近づいてくる気配があった。
「いや」と、ぼくは言っていた。「ここにいて」そう言ってから、自分が間違ったことを言ったのに気づいた。「いや、違う。行こう」そして、君の手を握った。そのまま、走り出していた背後で班長がなにか叫んでいたが、無視することにした。ぼくらはそこから逃げ出すことにしたのだ。
 そもそも逃げ出したいと思っていたのか、それとも君となら逃げ出したいと思ったのかは、正直なところわからない。全体の一部である自分に辟易していたような気もするし、君をひと目見た瞬間から、君とともに逃げたいと思った気もする。自分自身でも、本心はわからない。そんなものだろう。とにかく重要なのは、その動機ではなくて、それの結果なのだ。では、結果とは何だったのか。
 追ってくる班長や、その他の追手を振り切り、世界の果てまで駆け抜けた。ぼくらは息を切らしながら、それでもある種の充足感の中にいた。あの偉大な全体を出し抜いてやったという、そういう満足感があった。そして、同時に不安もあった。ぼくと君という、歯車を欠いた全体が、なにか不具合を起こすのではないかという不安だ。ぼくと君がどれほどちっぽけな存在だったとしても、部分を欠いた全体は全体として存在し得ないという、そういう確信がどこかにあったのだ。
 ぼくはその世界の果てから、全体を見上げた。君がぼくの傍らにやってきて、君も同じように見上げた。
「壊れてしまうのなら」と、君は言った。「壊れてしまえばいいんだ、こんなもの」口ではそう言っていたけれど、怯えがなかった言えば嘘になるだろう。君は怯えていたし、ぼくも怯えていた。全体が崩れてしまうのではないかと。
 しかしながら、どれだけ時間がたっても、それが崩壊するような気配はなかった。それどころか、それは変わらずに動き続けていたのだ。ぼくと君を欠いているのに!ぼくは愕然とした。ぼくの信じていたものこそ打ち砕かれ、崩れ去ったのだ。全体におけるぼくの役割。信じていたもの。そんなものは無かったのだ。ちっぽけなぼくは、いてもいなくても同じちっぽけな存在だったのだ。
 すごすごと戻ることもできず、ぼくと君はその世界の果てで、互いの歯車を回し続けることになったのだった。


No.447


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