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恋する彼女は

 女がいた。男がいた。女は男に恋をしていた。
 それは叶わぬ恋だった。なぜなら、女は死んだ幽霊で、男は生きた人間であるからだ。女は自分がなぜ死んだのかを知らなかった。多くの生きている人間がなぜ生まれたのかを知らないように。
 幽霊と人間、それだけならまだよかったかもしれないが、悪いことに男は幽霊を含め、超自然的な事柄一切を信じていないという主義の持ち主だった。ありとあらゆる心霊現象は科学的に説明ができると信じていたし、未確認生物の類はただの見間違いか勘違い、未確認飛行物体が異星から飛来した宇宙船だと見る向きにも否定的だった。
「はるばるやって来て、何もしないなんてあり得ないだろ?」
 異星人が人類と秘密の交渉を持っている、という説にも否定的。
 鼻で笑って「そんな馬鹿な。証拠を見せてほしいな」
「幽霊は?」
「そんなのいるわけないじゃないか」
「自分が見たものしか信じないのか?」
「ああ、そうだよ」
 男は可視光線を反射したもの、空気を振動させるもの、男自身の感覚器官に訴えるものだけしか信じなかった。
 幽霊の女はそんな男に恋をしていた。男のどこに惹かれたのかはわからない。多くの恋がそうであるように。ひと時も離れたくない。女はそう思った。これも多くの恋がそうであるように。幽霊の特権と言ってもいいのか、ふわふわと漂い、人の目には見えず、物もすり抜けられるので、女は常に男と行動を共にした。四六時中である。男の何歩か後方を、足音の無しについて行った。取り憑いている、とも思えなくはない。
 もちろん、女にもわかっていた。男に恋をしたところで、どうにもならないと。そもそもの話、男は生きていて、女は死んでいる。住む世界が違い過ぎる。女は男に触れることも、声をかけることすらもできない。女が言葉を投げたとして、それは男の耳には届かない。なぜなら、それは空気を振動させず、そうなると男の鼓膜が振動することも無いからだ。その恋がどこに行きつけるというのだろう。さらに悪いことには、男は幽霊の存在を信じておらず、男にとって、女は存在しないのだ、ということが、女にはわかっていた。それでも、女は男に恋をしていた。恋とはつまるところそういうものである。多くの恋がそうであるように。
 ある時、男が歩いていて、ハンカチを落とした。女はその真後ろにいて、それまでもずっと男のポケットからそれが落ちそうになっているのを見ていて、いつ落ちるかいつ落ちるかハラハラしていたのが、ついに落ちたのだった。女は男のハンカチを拾う素振りをする。拾うことはできない。女の指はハンカチをすり抜けてしまうから、だから素振りだけして、男に声をかけて渡すふりをした。「はい、どうぞ」何も持たない幽霊の手が差し出される。
 もちろん、男は気付かない。女の差し出した手は、宙をさ迷うだけだった。
 女は泣いた。声を上げて泣いた。誰にも聞こえない声で、誰の鼓膜も震わせない声で。女には自分がなぜ泣いているのかわからなかった。とにかく泣いた。止めどなく涙が溢れ、声が漏れた。すすり、しゃくりあげながら。
 人影が自分の前に立つのを女は感じ、女は顔を上げた。そこには男が立っていた。男は女を見ていた。
「知ってたよ」男は言った。
 女は黙っていた。
「君がそこにいるのを」
 女は声を発しようとするがそれができない。
「でも、もしも君が満たされてしまったは、君は成仏して消えてしまうから」
 男は黙った。
「ありがとう」女は言った。「さようなら」そう言うと、女は姿を消した。
 男がいた。女はいない。男は地面を見ていた。

No.358

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