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獣の見る夢

 獣も夢を見る。狼は夢によく肥えた羊を見た。見ているだけで、狼の口からは唾液が溢れてきた。狼はぜひともその羊を仕留めようと決めた。簡単に仕留められるだろう、と狼は考えた。羊は肥えている、きっと動きが鈍いはずだ。身をかがめ、息を潜めて羊に近付く。羊が狼に気付いた気配はない。狼は全身に力を込め、羊に飛び掛かった。
 しかし、羊は狼をひらりとかわし、走り出した。軽やかな身のこなしであった。狼は夢中でその後ろ姿を追った。追えども追えどもその距離は縮まらなかった。羊はその体格とは裏腹に、飛ぶように走っていく。草原を駆け抜けた。草の葉が狼の頬を切った。森を縫うように走った。枯れ枝が狼の脚を突いた。岩場を跳ねるように走った。小石が狼の耳に当たった。狼は全身全霊を込めて走った。生まれてからそれまでで最も力を込めて走った。脚が千切れそうだった。肺が焼けるように熱かった。心臓はまるで別の生き物がそこにいるかのように激しく動いた。狼と羊の距離は縮まる様子がなかった。
 狼は何度となく諦めようと思った。あれは実際たいした獲物ではない、と自分に言い聞かせようとした。こんな労力を使うまでもない獲物でしかないと。しかし、それまでに走った距離がそれを否定した。なぜお前はそれほどまでの距離を、それほどまでに力を込めて走ったのだ、と問う狼が狼の中にいた。そして、その声は走れば走るほど大きくなった。
 どれだけ走っても、羊には疲れる様子がなかった。狼は訝った。これまでの経験で、そんなことはなかったのだ。どんな生き物であれ、これだけ走れば息を上げた。狼だって、息が上がっている。そこで気付いた。そうだ、これは夢なのだ。現実ではないのだ。そして、狼はこう思った。現実でないのなら、これ以上追いかける必要はないのだ。もしあの羊に追い付けたとしても、得られるものなどないのだ。それは夢でしかない。手にした途端に消え去ってしまう、徒労感と無力感以外はなにも。
 ところが、狼の脚は止まろうとしなかった。脚に道理は通用しなかった。脚は走りたがっていた。狼は不安に駆られた。このまま脚が言うことを聞かなかったら、永遠に走り続けることになってしまっうのではあるまいか。いや、まて、これは夢ならば、そんなことはあるまい。夢はいずれ覚めるものだ。と狼は思った。
 そして走り続けた。永遠に。
 そんな夢を見た。夢を見る狼の夢である。果たしてこれが何かの暗示であるか、それはしらない。

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