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「おやすみ」と「おはよう」のあいだ

「おやすみ」と彼が言い、「おやすみ」とわたしが言う。
「いってらっしゃい」とわたしが言い、「いってきます」と彼が言う。
 わたしが眠りにつく頃、彼は仕事に出かける。彼がどんな仕事をしているのか、わたしは知らない。
「些細だけれど、とても大事な仕事」とだけ、彼は自分の仕事のことを言う。それ以上は絶対に教えてくれない。何度か聞き出そうとしたけれど、適当にはぐらかされてしまう。
「それを知ったら」と、彼は言う。「君のぼくに対するなにかが変わってしまったりする?」
 わたしは首を横に振る。「なにも変わらない」と、口では言うが、もしかしたら何かが変わってしまうこともあるかもしれないと内心では思っている。それでも、そう答えないと教えてもらえなさそうなので、そう答える。「なにも変わらないよ」
「じゃあ、知らないままでいいじゃないか」と、彼は悪戯っぽく笑う。「知っても、知らなくてもなにも変わらないのなら、知らないままでもなにも変わらないでしょ?」
「もお、ズルい!」と、わたしは頬を膨らませる。彼は笑っている。
「なにか」と、わたしは声を潜める。「言えないような、悪いことをしているの?」
「夜に仕事をするからって、悪いことじゃないよ」と、彼。「むしろ、いいことだと思う」
「なんなの?」
「さあ、もうおやすみ」と、彼は言う。「ぼくも行かなきゃならないし。あんまり遅くなると、オバケが出るぞ」
「ねえ、子どもじゃあるまいし」と、わたしは少し呆れる。
「おやすみ」と、彼は言う。
「いってらっしゃい」と、わたしは諦めて言う。そして、布団に潜り込む。
 そう言えば、子どもの頃は真夜中を過ぎるとオバケが跋扈するものだと思っていた。夜中の十二時を境に、世界はオバケたちのものになるのだ。もしかしたら、それは子どもだったわたしを早く寝かせるために親が吹き込んだことだったのかもしれない。
 部屋の明かりをすべて消し、あおむけになって天井を見上げる。暗さに目がどんどん慣れていって、うっすらと周りのものが見えてくる。カーテンの隙間から、月明かりが滑り込んでいる。少しずつ、眠気がやって来る。そして、眠りに落ちようというその時、視界の端でなにかが動いたような気がした。わたしの眠気は消し飛び、動いたものの方を見る。明かりをつけようと手を伸ばした時、それがなんなのかがわかった。
 羊。それも、手に乗るくらい小さな羊だ。白い綿のかたまりのように見えるけれど、小さいけれど確かに顔と蹄と尻尾がある、羊だ。わたしが呆気にとられて、明かりをつけられないでいると、もう一匹羊が現れた。カーテンの隙間から部屋に入ってきている。それがもう一匹、さらに一匹と、どんどん入ってくる。あっという間に部屋は小さな羊でいっぱいになった。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。
 夢だった。まだ暗い。わたしは時刻を確認する。真夜中。もう少しで、十二時を回る。わたしは布団をかぶる。子どもみたいに自分が怯えているという事実が滑稽だけど、怯えずにはいられない。オバケがくる。
「大丈夫だよ」という彼の声がする。「大丈夫」
 その声を聞くと、わたしは安心して眠りに落ちる。また、夢の中へ。
 わたしは自分の部屋にいた。目の前には彼がいる。
「仕事は?」わたしは尋ねる。
「もう、終わったよ」彼は答える。彼の答えが嘘なのがわたしにはわかるけれど、わたしはそれを言わない。彼の嘘を嘘のままにして、真実に変えようとする。けれど、それが真実になることはない。嘘は嘘だし、夢は夢だ。
「これも、夢でしょ?」わたしは言う。
「うん」彼は頷く。「そうだよ」という彼は少し寂しそうだ。彼はわかったのだ。わたしがすべてを思い出したのを。
「夢だから」と、わたしは言う。「あなたがいるんだね?」
「うん」と、彼は声を落とし言う。「そうだよ」
 三か月前、彼はいなくなった。「いってらっしゃい」は宙ぶらりんになった。「おかえりなさい」が言えなかったからだ。「おやすみ」も同じ。「おはよう」が言えなかったから。それがあまりにも突然のことだったから、わたしはそれを理解することができなかった。頭では理解できても、本当に納得できたかと言えば答えはノーだ。だって、理解できない。彼がいなくなってしまうなんて。
「そうだね」と、彼は言う。わたしの夢の中にだけいる彼。「ごめん」
「わたしが悪い夢を見ないようにすることが」と、わたしは言う。「あなたの仕事だったんだね」
「うん」と、彼は頷く。「ぼくがいられるのは、君の夢の中だけだからさ」
「ありがとう」と、わたしは言う。涙が溢れてくる。「ごめんね」
「なんで?」と、彼は困ったように言う。
「心配させちゃって」わたしは言う。「でも、もう大丈夫だから」
「ひとりでも?」
 わたしは首を横に振る。「ダメだけど、大丈夫だから」涙が止まらない。
「もうじき、朝だ」
「うん」
 わたしは自分が涙を流していることに気づいて目を覚ました。カーテンを開けると、ちょうど朝日の昇るところだった。これは現実だから、彼はいない。自分にそう言い聞かせると、涙が込み上げてきた。
「おかえり」と、わたしは言った。窓が白く曇った。彼の「ただいま」は無いけれど、彼はそう言うだろう。
「おはよう」と、わたしは言った。彼は「おはよう」と言うだろう。宙ぶらりんだった言葉たちが、満たされていく。
 朝が来た。たくさんの「おやすみ」と「おはよう」のあいだの夜を抜けて。


No.430


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