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この話は無かったことに

 ある男についての話。
 この男の過去については語られない。なぜなら、そんなものは無いからだ。過去を持たない男。そんなものが存在しうるだろうか?子どもであったことも、学生であったこともなく、突如この世に現れた男。あるいは、男自身が過去を語ることもあるかもしれない。貧困家庭に生まれ育った、権力を憎む男。富裕層の家庭で何一つ不自由なく育ち、教育と教養を身につけた男。その他さまざまな過去を、男は持っている。そのどれもが真実であり、現実である。名前にしてもそうだ。男に名前は無い。あるいは、男にはいくつもの名前、そしてそれを保証する証明書がある。どれも偽造品ではなく、正真正銘本物の身分証だ。何者でもあるということは、何者でもないのと等しい。男は何者でもない男。
 男はスパイだ。
 男の頭に銃口が向けられた。引き金にかけられた指に力が込められれば、鉛玉が男の頭に風穴を空けることだろう。
「冗談はよせ」と男は言った。「そんなものを向けるなよ。危ないだろ」
 男は顔に笑みを浮かべようと試みる。その状況は冗談なのだと思っているのだと思わせるように。あるいは、自分がどれだけタフかを証明しようというように。しかし、それは引きつったものにしかならない。恐怖の表明にしかならない。
 死線なら幾つも越えているのだ、と男は自分を鼓舞する。ここもまた同じように乗り切れるに違いないと思い込ませようとする。実際、男はいくつもの死線を越えてそこにいる。もしそのどこかで死んでいれば、すでに墓穴の中、そこで頭に銃口を突きつけられることなどできないのだ。この状況だってきっと乗り切れる。男は本気でそう信じようとする。だが、自分をそう思い込ませたところで、何も解決はしない。重要なのは、たった今、銃口を向けている人物に、自分たちは仲間なのだと思い込ませることなのだ。そう、思い込ませなければならない。つまり、男と銃口を突きつける人物は本当は仲間ではない。だからこそ、思い込まなければならないのだ。男はスパイであり、銃口を突きつける人物もスパイである。だが、男はまたさらにスパイなのだ。二重のスパイ。 いや、男は自分がどこのスパイなのか、誰の味方なのか、誰と敵対しているのか、そもそも自分がスパイなのか、わからなくなっている。男には自分が誰なのかわからない。ただ、そこに存在しているのだ。それすらも、男は確信が持てない。男は自分が存在するのかどうか確信が持てずにいる。
「俺が何をしたって言うんだ?」と男は言った。「何かミスを犯したか?それならそう言ってくれ。落とし前はつける。だが、それはこんな形でじゃない。ちゃんと、差し引きゼロになるようにする。さあ、そんなものを向けないでくれ」
 引き金が引かれる。男の額に弾丸がめり込み、風穴を開ける。男は死ぬ。死体は身元不明の死体として処理されるだろう。誰も男を知らない。さまざまなところに照会されるが、どこもその男が誰なのかわからない。もちろん、遺体の引き取り手もいない。そもそも、そんな男は存在しなかったのだ。
 男は存在しなかった、という話。
 ということは、この話もあってはならない。この話は無かったのだ。


No.88  

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