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心奪われて

 空から急にやって来たそれによって、ぼくの心は奪い去られました。天高く舞い上がって行く後ろ姿だけしか、ほくの心を奪ったそれが、一体何者であるかを知る余地はありませんでした。それは、大きな白い鳥でした。白くはありますが、白鳥ではない、何か別の猛禽のような体つきの鳥でした。羽ばたく毎にその姿はぐんぐんと遠ざかり、あっと言う間に白い点に、そして見えなくなりました。
 心を失ったぼくはといえば、落胆も絶望もしていませんでした。茫然自失というのとも違います。何も感じていなかったのです。心という大事なものを失ったというのに、何も感じないなどということがあるのかと訝られるかもしれませんが、忘れては困ります。ぼくの失ったものは、他でもない心、絶望や落胆を感じるその心だったのです。だから、ぼくは何も感じていませんでした。ぼくの心を持ち去った白い鳥の後ろ姿も、簡単に見送ることができました。
 心を失ってからのぼくは、数々の心ない行いをしたことと思います。なにしろ心が無いのですから仕方がありません。なぜ、自分がしたことなのにもかかわらず、したことと思う、などという不確かな言い方をするかと言えば、それも心が無いのですから、ぼくは心ない行いで心を痛めることもできないわけで、果たして、自分の行いが心ないものかどうかの判断すらできないのです。逆になぜ、心が無いぼくが、心ない行いをしたことを知れたかという、それは周りの人々に教えられたからです。
「こらこら、花壇に入っちゃいかん。あ、こら、話を聞け!花を踏み潰すな」
「だって、こっちを通った方が早いんです」ぼくは言いました。
「まったく、なんて奴だ」
 それで、ぼくは自分が心ない行いをしてしまったということを知りました。とはいえ、それで後悔をしたり、反省をしたり、恥じ入ったりすることはありません。そんな様子が相手に伝わったのでしょう。ぼくを叱ったその人は、悪態をつきながら行ってしまいました。そんな振る舞いをされても、ぼくはなんとも思いませんでした。
 その他にも、足の悪い人がいても席は譲りませんでしたし、重そうな荷物を持った人を助けることもしませんでした。怪我をした小鳥を見殺しにしたこともありましたし、どしゃ降りの雨にさらされている捨て猫の前を素通りしたこともありました。痛める心が無いので、ぼくはなにも感じません。
 そんなぼくを、多くの人は罵りました。ぼくの心ない行いが原因です。悪罵され、時にはつぶてさえ飛んで来ました。殴られたことも一度や二度ではありません。心の無いぼくには、彼らの行いが心ないものかはわかりません。そして、ぼくには心が無いので、そんな仕打ちを受けても、ちっとも悲しくはないし、怒りも湧いては来ないのです。さめざめ泣くこともなければ、仕返しに殴り返すようなこともありません。
 何を失うのも怖くありませんでした。失ったところで、どうせ何も感じないのですから。ぼくは次々何かを失いました。一切の抵抗なしに。友人を失い、恋人を失いました。ぼくは悲しくもなんともありません。大切にしていた宝物を失い、思い出の品を失いました。全く惜しくはありませんでした。仕事を失い、ついには住む場所さえ失いました。ぼくは街を放浪し、お腹が空けばゴミ捨て場を漁り、物乞いもしました。惨めだとも、屈辱だとも思いませんでした。必要なものがあれば、そうして手に入れるだけです。もしかしたら、死ぬこともぼくはなんとも思っていなかったかもしれません。それでも、ただ単純に、なんとなしに生きる方を選んでいました。死を積極的に選ぶ理由も、意志も、ぼくには無いのでした。ぼくは落ちるところまで落ちていたのでしょう。それでも、ぼくは何も感じないのではありましたが。
 そんな時、あの白い鳥が、ぼくの心を奪い去った白い鳥が、ぼくの目の前に現れたのです。それはぼくの記憶にある姿よりも大きく逞しく、鋭い嘴と爪を持っていました。馬でさえも八つ裂きにできそうな爪と力強い足でした。それはぼくの心をがっちりと掴んでいました。
「それはぼくの心だ」
「あたしのものよ」白い鳥は言いました。「これはあたしのもの。あんたのものじゃないわ」
「返してくれ」
「いやよ」
「ぼくのものだ。ぼくに返すべきだろう」
「いやよ」そう言って、鳥は羽ばたき、飛んでいきました。ぼくの心をその爪に掴んだまま。
「なぜだ?」
「なぜって?」白い鳥は一瞬振り返り。「欲しいから」そう言うと、後は振り返りもせずに飛び去っていきました。
 それでもやはり、ぼくは悲しくもなければ、憤りを覚えるでもなく、何も感じないのでした。


No.226

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