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代表者、現る

 男のところに代表と名乗る人間がやって来た。
 朝方、まだ男も街も寝入っているような時刻のことだ。ドアがノックされ、男は目を覚ました。男は狸寝入りすることにした。まだ起きる時刻には時間がある。まだ眠っていたかったのだ。そもそもこんな時刻にやって来るなんて非常識だ。どうせすぐに諦めて行ってしまうだろう、と男は思っていた。が、甘かった。
 ノックは激しくなった。しかもしつこくしつこくドアを叩き続ける。このままではドアが壊されてしまうのではないかと不安になるくらいだ。男はついに根負けした。床を強く踏みしめながら玄関に向かった。
 そして、ドアを開けるとそこに立っていたのが代表だったのだ。
「代表の者だが」と代表は言った。
「代表?」男は目を擦った。代表の姿が霞んで見えたのだ。「なんの代表です?」
「みんなの代表だ」と代表。「お前に話があって来た」
 平たく言えば、代表の話とは小言だった。
「爪はこまめに切れ」
「はあ」
「寝癖なんかつけたまま出歩くな」
「はあ」
「歩き煙草はやめろ」
「はあ」
「便器の蓋は使ったらちゃんとしめろ」
「はあ」
「不倫はするな」
「はあ」男は独身者である。面倒だから生返事をした。
「税金はちゃんと納めろ」
「はあ」
 これが延々と続く。男の側からすれば、それは確かに思い当たるところもあったので、一々ごもっともとばかり頷いていたが、いかんせん長すぎる。次第に右から左、頭に入って来なくなった。それだけならまだしも、わかったことを再度言われたりし、それが重なると男の苛々が募った。
「聞いているのか!」と代表。
「聞いてますよ!」と男は言った。「聞いてますけど、あなたいったいなんなんです?こんな早朝にやって来て、くどくど説教をして。どんな権利でそんなことをしているんです?あなたに僕の何がわかるんです?あなたの言いたいことはわかったから、そろそろお引き取り願いませんか」
 代表は髭を整えた。代表には代表的な髭があるのだ。最初はその姿が霞んで見えたものだからわからなかったが、代表がそれを整えたことで男ははじめてその存在に気づいた。「私が言いたいことじゃない。みんなが言いたいことだ。みんなが言いたいことを代表してこう伝えているわけだ」
 男は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。決してため息に聞こえないように。ため息をつけばそれについて責められるに違いない。代表はその様子をじっと観察している。
 その後も代表はなかなか帰らず、話は続いた。代表が帰った時には、もう太陽が高く昇っていた。男は膝から崩れ落ちた。ヘトヘトだった。
 友人に会った時、男はその一部始終を話した。
「ああ、代表ね」と話を聞いた友人は言った。
「知ってるのか?」男は驚いた。
「まあ、ね」友人はなぜか言葉を濁す。「まあ、みんなの代表だからさ」
 他の友人知人に話しても同じような反応だった。中には自分のところにも来たという者もいた。
「まったく、なんであんな奴が代表なんだかね」と誰もが口々に言った。多くを語らないが、代表のせいで散々な目にあったに違いない。
「みんなが代表にしたんだろ?」
「そうだね。原理的には」
「君はみんなに入ってないのか?」男は尋ねた。すると尋ねられた者はみんな肩をすくめた。
「原理的には、ね」
 謎、である。


No.664

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