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 ある朝目覚めると、骨が無くなっていた。全身の骨という骨だ。これでは起き上がることもできない。どうにか体勢を変えようとしたが、無様にのたうち回るだけだ。「おい」妻を呼ぶ。「骨はどこだ?」
「さあ」妻は気のない返事をする。
「さあ、って、これでは仕事に行けないぞ」
「昨日も遅いお帰りで、大分酔ってらしたようですから、大方どこかで落として来たんでしょう」と嫌味を言われた。「それに、あなたお仕事は辞めたんでしょうに」
 そうだった。正確に言うとクビになったのだが、そんなことは恥ずかしくて口が裂けても言えない。その憂さ晴らしに昨日は深酒をしてしまったわけだが、妻からしてみれば、仕事を辞めておきながら午前様では虫の居所もそれは悪いだろう。しかし、弁明しようにも真相を話すわけにもいかないから黙ることにした。 
 「仕事がなくったって、これでは生活もままならないじゃないか」
「ままならないのは家計の方ですよ」と妻は言う。嫌味たっぷりだ。
「すぐに次の仕事は見つかる」
 じっとりとした視線で妻が見ている。疑いの目というやつだ。あるいは、妻は真相を知っているのではあるまいか。辞めたのではなく、クビになったのだという事実を。
「これでとりあえずの代わりにはなりませんか?」と妻が差し出したのはハンガーだ。針金を捻じ曲げて作った種類のものだ。のたうち回っているようでは立場も弱い。もちろん、引け目はそれだけではないのだ。従う他は無い。
 ところが、それは柔らかく、体を支えるなんてことは到底できない。
「ダメだ!ダメだ!こんなんじゃ立ち上がれない!」つい声が大きくなる。
「じゃあ、これは?」と差し出されたのは木の枝だ。きっとどこかから拾ってきたものに違いない。試してみるがすぐに折れた。
「ダメだ!こんなんじゃ!本物の骨でないと!」
 妻はため息をついた。「わかりましたよ。交番にでも届いてないか、見て来るから、しばらくそうしてゆっくりしていてください」妻はそう言った。「ゆっくり」の部分は特に嫌味ったらしいく、ねっとりと。
 そうして、妻は出て行った。ゆっくりもなにも、できることと言えば横になっているしかできないわけだから、横になっているしかない。果たしてこれはゆっくりしているのだろうか?なんだかちっとも休まらない。時間はやたらと間延びし、いつもなら俊敏で目にもとまらないその尻尾を掴むことができそうなくらいのんびり進む。まあ、捕まえようにも腕を上げることができないのだ、時間の方もそれはなめてかかる。
 妻の帰りを今か今かと待ちわびるが、待てど暮らせど帰って来ない。ジリジリする。どこに行ったのか、後を追いたくなるが、それもできないわけだから、さらに苛立ちは募る。
  ずいぶん長い時間を待ったような気がする。不安になってきた。もしかしたら、妻はもう戻らないのではないか。仕事を失い、骨までなくした男を見捨ててしまったのではないか。見捨てるだけに十分な理由がある気もする。こうしてのたうち回るしか能がないのだ。よもや収入がないのはいいとして、のたうち回りながら偉そうにしていたら愛想をつかされても不思議はない。自分の振る舞いを反省した。いや、猛省だ。妻が帰ってきたら詫びよう。詫びなければならない。ああ、早く詫びたい。しかし、妻は返ってこない。居ても立ってもいられず、妻を探しに飛び出そうとしたが、骨がない。意気込みとは対照的にのたうち回るだけだ。
 あぁ、骨さえあれば。

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