スティルライフ

 祖母の家に夏の帰省をした時、ぼくは決まって祖父の書庫にこもった。近所にはぼくと同じ年頃の子どもはいなかったし、もしいたとしても、人見知りな子どもだったぼくでは、遊びの輪に入れてもらうことなどできなかっただろう。きっと、その輪を遠巻きに眺め、もじもじしていただけだろう。
 その頃から、ぼくの友は本だけだった。外界とのやり取りは全て母がやってくれていた。母はとても社交的な人で、人に頼られ、人の輪を作るのがとてもうまかった。学校での親の集まりがあると、その中心になるような人だった。それで、ぼくに関する外交はすべて母がやってしまい、ぼくは思う存分自分の世界に閉じ籠ることができていたのだ。母はぼくを溺愛していた。これは当事者であるぼくですらわかるくらい。そのため、ぼくはほとんど口を利かない子供だった。祖母が、ぼくのあまりに大人しいのに心配するほどに。
「こんなに大人しくて大丈夫かね?」
 母は肩をすくめ。ぼくは母の後ろに隠れた。
 祖母の家の中でも、ぼくはひんやりとして過ごしやすい書庫を好んだ。床から天井まで、本がびっしりと詰まっていた。壁はすべて本のために棚になっていて、天窓はあったけれど、昼でも薄暗かった。埃っぽくて、黴臭くて、古い紙の匂いが充満していた。幼いぼくにはどんな本があるのかはよくわかっていなかった。難しそうな題名を背表紙にしょった本たちの列だ。でも、それだけでよかった。そこには世界のすべてが詰まっているのだと、ぼくには思えた。もしかしたら、それは世界のすべてのほんの一部なのかもしれないけれど、世界のすべてに繋がっていることに変わりはない。
 そこはぼくの聖域だった。母も祖母も、そこには近付かなかったのだ。祖母は足が悪かったから、二階にある書庫までは来られなかったし、母にとってそこはイタズラをした際のお仕置き部屋だったらしく、まるで忌々しいものであるかのように扱った。
「おばけが出るんだよ」と、母はぼくを脅かしたが、書庫についてはその家で生まれ育った母よりもぼくの方が詳しかったに違いない。ちょっとした暗がりで何かが動いたような気がすることもあったけれど、おばけは出ない。たぶん。
 祖父の書庫の中で、ぼくの一番のお気に入りは図鑑だった。それは大きな本で、書棚の一番下に差し込まれていて、幼いぼくでも自分で取り出し、ページをめくることができたのだ。動物や鳥、昆虫に植物、今ぼくの持っているそれらに関する知識はおよそ全てその図鑑から学びとられたと言っても過言ではないのではないかと思う。日がな一日、ページをめくり、絵を眺め、そこに書かれた説明を読んだ。
「よく飽きないね」と、母は言った。「飽きないの?」
 ぼくは肩をすくめるだけだった。
 中でも、一番のお気に入りだったのが古生物の図鑑だった。
 その図鑑はとても古くて、それ自体が古生物のようで、紙は少し日に焼けていた。開くと独特の匂いがしたが、それは古い動物たちの匂いなのだとぼくは思っていた。ぼくはその図鑑で、その古い生き物たちの、刺々しくて、重そうな名前に親しんだ。生きているものたちよりも、ぼくはそれら太古の生き物と親密になっていったのだ。巨大で、愚かな生き物たち。本当にそれらが愚かだったのか、ぼくにはわからないけれど、なぜかぼくはその生き物たちが愚かだったと決めつけていたし、今もそんな印象を持っている。おそらく絶滅してしまったからなのだろうけれど、そんな印象は言いがかり以上の何物でもない。
 図鑑をはじめ、書庫を遺した祖父は、ぼくが産まれた頃にはとっくに鬼籍に入っていた。祖母と母は、主を失った書庫をどう処分したものか考えあぐねていたらしい。あるいは、処分しようかと思ったのかもしれない。そうこうしているうちに、ぼくが産まれ、しばらくするとそこを気に入ったために、処分のしようがなくなったということだ。
 だから、ぼくは祖父に会ったことがない。それは太古の生き物たちをこの目で見たことがないのと同じように。
 ある日、ぼくは図鑑の余白になにか書かれているのに気づいた。毎日毎日眺めていても、気づかないことはあるものだ。
「これをよんできるきみとなら」と、そこには書かれていた。「きっとぼくはともだちになれるのだとおもう」
 それが祖父の書いたものなのかを確かめはしなかった。祖母や、母に聞けば、祖父の筆跡かどうかわかっただろうが、それを誰かに見せるのは裏切りのように思えた。ぼくと、祖父の秘密。誰にも教えてはいけない、友達だけの合言葉。だから、それが本当に祖父の書いたものなのかはわからないけれど、ぼくは信じることにした。それは祖父が書いたものなのだ。
 もちろん、祖父はそれをぼくが読むことになるとは知らなかった。なにせ、ぼくが産まれる前に死んでしまっているのだ。それはぼくに向けられた言葉ではなく、誰かに向けられた言葉だけれど、ぼくに向けられた言葉だ。ぼくだけに向けられた言葉。
 ぼくと祖父は友達だ。会ったことは無いけれど。
 祖父も太古の生き物たちも、ぼくの中でまだ生きている。


No.541


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