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彼女の繭

 部屋に帰ると、彼女が繭になっていた。玄関で「ただいま」と声をかけても返事がない。嫌な予感に胸騒ぎがする。扉をひらく。寝室の片隅に、白く美しい繭があった。日に照らされたそれの白い糸は、サラサラと輝いていた。ぼくの目から、涙がこぼれた。それが彼女が繭になってしまったからなのか、それとも、その繭があまりに美しかったからなのか、ぼくはいまだにどちらなのかわからずにいる。
 実際のところ、ぼくにはある程度までの覚悟ができていた。その数日前、彼女自身の口から、こう言われていたからだ。
「わたし」と、寝室の片隅、彼女が繭になった場所にうずくまりながら、まだ繭になる前の彼女は言った。「繭になるみたい」
「繭?」と、ぼくは言った。「繭って、あの繭」
「そう」と、ほんの少しだけうなずいて彼女は言った。「あの、繭」
 少し前から、繭になる人が出てきていた。人が、繭になる。最初、誰もがそれに戸惑った。それはそうだろう。普通に、日常生活を送っていた人が、急に繭に閉じこもる。そして、微動だにしないわけだ。様々な研究がなされたが、どういう条件で人が繭になるのかは解明されないままでいる。もしかしたら、それは自分にも起こることなのかもしれない。それでも、恐慌を来さなかったのは、繭から出てきた人間が、素晴らしい存在になるからだった。それはもう人間と呼ぶことのできないなにかであり、素晴らしく優れた存在としか、未熟な人類には呼び得ないなにかだった。つまるところ、人類は未熟で不完全な存在であり、繭になり、そこから出てくることで、成熟し、完全なものになるということのようだった。そして、完全な存在であるところの彼らであれば、繭になる条件もわかるだろうが、彼らにはそんなことはどうでもいいことのようだった。
「じゃあ」と、ぼくは寝室の片隅にうずくまる彼女に言った。「全部忘れてしまうの?」
 繭から出てきた人は、繭になる前のことをすべて忘れ去ってしまうということだった。それは、おそらく蝶や蛾もそうなのだ。彼らは幼虫の体を一度すべて御破算にして、成虫の姿を作り直す。それと同じことが、繭になった人にも起こるのだろう。体をすべて作り変え、記憶も失われる。蝶に記憶があるのなら、それと同じことだろうが、蝶の思い出についてはぼくは知らない。問題は人間についてであり、本当の問題は繭になるという彼女の思い出についてだ。
「わすれない」と、彼女は壁に頭をあずけながらぼんやりと言った。「忘れないよ」
 それがなんの慰めにもならないのは明らかだった。彼女の記憶は失われるのだろう。記憶を失わない方法があるという噂もあったが、どれも眉唾な情報源だった。ちゃんとした研究や報告はみな、繭から出た人の記憶の消失を事実として認めていた。そのひとつは、こう言っていた。
「記憶すべて捧げてもなお、それに見合う以上の見返りが得られるのだというのもまた事実である」
 なんて無責任な。
 ぼくと彼女の記憶。冬の遊園地で凍えたこと、花火大会の帰り道でメガネを無くしたこと、些細な口論、くだらないことで笑いあった日々、そうしたすべてを捧げてもお釣りの来るなにかとはなんだろう。そんなもの存在するだろうか?
「忘れない」
「いや、いいんだよ」
「大丈夫だから」
「うん、大丈夫」
 彼女の繭を前にして、ぼくはどうにかその現実を受け入れようとあがいていた。そこから出てくるのは、彼女であって彼女ではないなにかだ。ぼくなんかよりも数段聡明なそれは、自分の置かれたその状況からすべてを察するかもしれない。目の前にいるぼく、ふたりが写った写真、その他諸々の状況証拠。そして、ぼくにうまく合わせてくれるかもしれない。あたかも、元の彼女と変わっていないかのように。しかしながら、どんなに似せようと、彼女は失われてしまうのだ。未熟で、不完全な彼女。それはも二度と取り戻せない。それが現実だ。
 それからというもの、ぼくはほとんど飲まず食わずで繭の前に座っていた。まるで、卵から出てきたひな鳥が、最初に見たものを親と見なすのと同じことが、繭から出てきた彼女にも起こるのを期待するみたいに。そんなことはきっと起こらないのだとはわかりながら。それでも、ぼくは彼女を待っていた。彼女を。
 ある夜更け、ぼくはほのかな光に起こされた。繭が、その内側から光を放っていた。ぼくはよろよろと立ち上がる。繭の表面に亀裂が入る。彼女が、出てくる。出てくる。
 すべてはもう終わってしまったのだとはわかっていたけど、それでも、ぼくは。



No.482


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