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潮の香り、排気と油の臭い、カモメの鳴き声

 誘拐されたことがある。まだわたしが学生だった頃のことだ。
 その記憶は、潮の香りと、フェリーの吐き出す排気と油の臭いと結びついている。
 そいつはフェリー乗り場で捕まり、わたしはそこで解放されたからだ。そいつがどこに行こうとしていたのかは知らない。
 カモメが鳴いていた。
 いきなり車に押し込められ、後ろ手に縛られた。悲鳴を上げるとか、徹底的に暴れてやるとか、そんなイメージトレーニングみたいなことをしていたのだけれど、実際にそういう状況になるとなにもできない。怖いのは怖いし、抵抗すればもしかしたら殺されてしまうのではないかという不安もある。このあたりは書きかけの小説みたいなものだ。書きあがったものにああでもないこうでもないと批評することは簡単だろうけど、それがいままさに書かれている瞬間には、どういう選択肢が正しいのかは全然わからなくて、まさに暗中模索状態なのだ。それとおんなじ。もしかしたら、殴られるかもしれない。殺されるかもしれない。そういう、無数の可能性がある。下手な事はできないし、下手な事はできないと思い込んでいる。そんな感じ。だいたい、そんな感じ。ちょっと違うかも。
 それ以上に、なんだか現実味がなかった。頭がふわふわしてて「うわっ、わたし誘拐されてんじゃん」みたいな思考が浮かんできて、むしろ滑稽で、笑い出さないように我慢するのが大変だった。
「お金ないよ、うち」と、わたしは言った。後部座席に後ろ手に縛られているわたし。
 運転席の男はうんともすんとも言わない。むすっとして、前を向いて運転に集中しようとしているようだった。集中しようとしないと集中できない感じ。
 たぶん、そいつはそいつではじめて誘拐をしたものだから、「うわっ、誘拐しちゃったよ」って感じだったんだと思う。それって結構衝撃的な展開だと思う。なかなかそんな展開をする人生って無いと思う。
 そいつがどんな人生を歩んできたのかは別に知りたくもない。
 そいつがどんな人生を歩んできたのか、わたしは知らない。
 結局、わたしは一週間もそいつに車で連れ回されることになる。当てもなく車を走らせ、コンビニで食べ物や飲み物を買い、トイレを使わせてもらい、車の中で眠った。変なことはされなかったし、そんな気配も無かった。最初は警戒して浅い眠りでうつらうつらしていたけど、最後はぐっすり熟睡するようになっていた。わたしが逃げ出さないのがわかると、縛っていた縄はほどいてくれた。特に会話は無い。
 そして、フェリー乗り場に着いた。わたしたちは、そのフェリーが車を次々飲み込んでいくのを眺めていた。潮の香り、排気と油の臭い。カモメが飛び交いながら鳴いていた。
「寂しかっただけなんだ」そいつはポツリと言った。
「え?」
「ただ、寂しかっただけなのかもしれない」
「バカみたい」と、わたしは言った。「バカみたい」
 そいつは少し笑った。笑えるなんて思っていなかったから、ちょっと意外だった。そいつにそんな感情があるなんて驚きだった。
 その時、わたしたちの背後でわたしの名前が呼ばれた。振り返ると、スーツを着た二人組が立っている。警察手帳が取り出され「うわっ、ドラマと一緒だ」と思った。
 そこからは様々な事務手続き的なあれやこれや。健康診断的ななんかがあったり、事情を聞かれたり、両親との感動の再会があり「うわっ、ドラマみたい」と思い、学校に戻ると「誘拐されたかわいそうな子」みたいになっていて心が折れそうになった。
 警察の人に、こう確認された。「同意の上で、一緒に旅行をしていただけだと供述していますが、そうなんですか?」
「違います」わたしは即答した。「早くあいつを死刑にしてください」
 銀行強盗と人質のあいだに恋愛感情が芽生えちゃうことがあるとか言うけど、わたしとそいつのあいだにはそんなもの一切芽生えなかった。一週間同じ下着をつけるのも、髪を洗えないのも、クソ狭い車の中で寝なきゃいけないのも、本当に最低最悪だった。二度とごめんだし、そんなことになるくらいなら抵抗して殺されたほうがマシだ。ウソ。生きている方が絶対にいい。
 裁判があって、そいつは死刑にはならなかったけど、二度とわたしに近寄れないようになった。近寄っただけで逮捕される。この世界で、生きているのに二度と会えない唯一の人。そいつはわたしにとって特別な人間になったのだ。もちろん、皮肉だ。
 わたしはたまに、あのフェリー乗り場にもう一度行きたいような気分になる。潮の香り、排気と油の臭い、カモメの鳴き声。
 でも、わたしは絶対に行かないと思う。


No.570


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