見出し画像

たとえば、「愛」とか

「形あるもので、信じられたものなんて、ある?」と彼女は言った。
 ぼくらは真夜中の博物館にいた。真夜中の博物館はとても静かだ。そこで大騒動が巻き起こるのは映画か物語の中だけで、実際には物音を立てるものがひとつもないそこは、微かなホコリの舞い落ちる音さえ聴こえそうなほど静かだ。すべて死んでしまったみたいに。
 ぼくらがなぜそんな時刻にそこにいられたかというと、彼女がその博物館で働いていて、しかも「ちょっとエライ」立場だったからだ。彼女はそこの鍵を委ねられていて、あまつさえ自由に出入りできた。たとえば、誰もいない真夜中とか。
 ぼくらはいつも真夜中の博物館で会った。彼女がそれを望んだからだ。彼女は周囲から「ちょっと変わり者」と考えられていた。ぼくにも異論はない。彼女はちょっと変わり者だ。生きている人間よりも太古の、絶滅してしまった生き物に興味を持っていた。彼女がいま現在生きている人間に関心を抱くとしたら、それは彼らが絶滅し、化石になったあとのことになるだろう。
「形あるもので、信じられたものなんて、ある?」と、彼女はもう一度言った。
 彼女はいつもささやくような話し方をした。まるで、展示された太古の生物の化石たちが聞き耳を立てているかのように。
「でも」と、ぼくは返事をした。彼女につられてか、あたりを包む静寂のせいか、ぼくも小声になった。「君が関心を示しているのは、形の残ったものだけじゃない?」彼女が興味を持つのは化石は過去の遺物、手に触れられる、形のあるものばかりなのだ。
 彼女は肩をすくめた。彼女よりも肩をすくめる仕草がセクシーな博物学者は存在しないだろうと、ぼくは思った。
「形のあるものが大事なんじゃない。形のあるものから読み取れる、膨大な形のないものが重要なの」
 どういう意味なのかぼくにはチンプンカンプンだった。彼女はぼくなんかよりもとても頭がいい。彼女はぼくの知らないことをたくさん知っていて、その夜には古い言葉の単語をいくつも教えてくれた。それは様々な動植物につけられた名前だった。遠い昔、古代の、絶滅してしまった生き物から、今も存在しているものまで。ぼくはその一つでさえも覚えることができなかった。
「昔の生き物には」とティラノサウルスの化石とトリケラトプスの化石が向き合う間で、ぼくは尋ねた。「誰が名前を付けたの?」
「わたしたち」
「わたしたち?」
「わたしたち、いま生きている人間」
「その生き物が生きているのをみたこともないのに?」
「そう」
「トリケラトプスは『あ、あそこにティラノサウルスがいるぞ』なんて思わなかった?」
「もちろん。アウストラロピテクスは自分がアウストラロピテクスだなんて知らない。ただ、そこにいただけ。そこにいて、なにかを食べて、寝て、悲しんだり楽しんだりして、そして死んだ。死んで、化石になって、それを誰かが見つけて、名前をつけた」
 古代の大地をのしのし歩いていた古代の生き物は、遠い将来に自分にそんな名前が付けられることになるなどとは予想だにしなかったことだろう。そんなもの無しでも彼らは不自由しなかっただろうし、なんのためにそんなものが必要なのか理解もできないだろう。
「わたしたちは、そうして世界を創造しました」と彼女は言った。
「今、こうしてある世界を」と、ぼくは言った。
 ティラノサウルスがティラノサウルスで、トリケラトプスはトリケラトプスであり、アウストラロピテクスがアウストラロピテクスである世界。
「そう」彼女は頷いた。
 彼女はぼくに手を握っているようにせがんだ。
「わたしが形のあるものだって、信じていられるように」
「形のあるもので、信じられたものなんてないんだろ?」
「嘘だとしても、形のあるものでいたいじゃない」
 息を潜めて、じっとしていると、指先から彼女の脈動が感じられるような気がした。死んでしまったものたちの中で、間違いなく彼女は生きていた。
 ぼくらがその瞬間に死んで、化石になって、それを遠い未来の誰かが見つけたとして、その誰かはぼくらのそれになんて名前を付けるのだろう。

No.283

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?