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波の音が聴こえる

 学生の頃の恋人にばったり出くわした。先に気付いたのは彼女の方だった。夕暮れ時で、帰宅ラッシュの駅前の、人通りの多い雑踏の中で、よく気付いたものだと変に感心した。 ぼくらは川のように流れる人波の中に立ち止まっていた。
「歩き方で、一目でわかった」と言われて、自分がそんなに特徴的な歩き方をしているのかと気になった。
「違うよ」と彼女は笑った。「そういうんじゃなくて、わかるの」
 会わなくなってから、少なからぬ時間が経って、お互いにそれと同じだけの変化があった。最後に会ったのは、たぶん別れた時のことだから、ぼくも彼女も大学生だった。ぼくの背広姿がおかしいと笑われ、彼女のきちんと化粧したのが不思議だと笑った。特に予定もなく、時間があるということだったので、お茶でも飲みながら少し話すことにした。お互いの近況についてや、昔の仲間がいま何をしているのか。ひとしきり話して、気付けば話題は昔の思い出話に。他愛ないことばかりで、客観的にみればちっとも面白くないようなことだらけに違いないのに、する話する話お互い笑ってしまう。
 彼女と出会ったのは大学の頃のことだ。男女数人のグループで仲良くなり、その中のひとりがぼくであり、また彼女だった。ぼくは人見知りで冴えない奴だった。彼女は少し大人びていて、一目置かれる存在だった。たぶん、どこにでもあるようなよくある話だろう。
「みんなで海に行った時のこと、覚えてる?」
「ああ、浜辺で花火をして警官に怒られたんだよね」
「私たちだけ逃げたんだよ」
「そうだった」
 衝動的に、夜中に集まって、仲間の中で唯一車を持っていた奴の運転で海へ行った。夏にはまだちょっとあって、夜の風が少し肌寒かった。最後にぼくを拾って海へ向かう予定だったのだが、待ち合わせの時刻になってもなかなか車が来ない。
「世界の果てでひとり取り残されたみたいな気分だった」と言うと彼女は笑った。
 最後に車に乗り込むぼくは後部座席の窮屈な席にどうにかこうにか収まった。彼女は助手席に座っていた。ぼくは彼女のことをずっと見ていた。まだ付き合う前のことだ。高速道路のオレンジ色の明かりが、彼女の横顔を滑っていっていた。
 途中、休憩したコンビニに、早くも花火が売っていて、ぼくらはそれを大量に買い込んだ。そして、後部座席でうつらうつらしていると波の音がして、海だとわかった。
「あの時、ふたりきりになった時、わたしが言ったこと覚えてる?」
「覚えてる」
「あれを知ってるのは、世界中で私たちふたりだけなんだね」
 連絡先は交換しないことにした。また会うことがあったとしても、偶然が良かった。どちらから言い出したわけでもなかった。昔からそういうことはよくあった。どちらが言い出すでもなく、何かしらの結論が出た。
「ねえ」
「ん?」
「私たちって、なんで別れたんだっけ?」
「忘れたよ」
 彼女の後ろ姿が、雑踏の中に消えるまで見ていた。波の音がした気がした。






No.179

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