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最初の秘密

 昔々、世界には死が無かった。誰も死を知らなかったからだ。それまではひとりの人間も死んだことがなく、当然誰かが死んだところを見たことのある者もなく、どうやったら死ぬのかを知っている者もいなかった。誰も死に方を知らなかったから、誰も死ななかった。だから、人々は生き続けた。死に方を知らないのだから、生きるしかない。病も、不慮の事故も人々を殺せなかった。時間すら人々を殺すことはできなかった。 
 ある日、ひとりの少年が古い壺を覗き込んだ。甕だったという説もあるし、瓶だったという説もある。とにかく、少年は何かを覗き込んだ。その中には何も無かった。黒い闇だけしか無かった。少年は少し落胆した。少年は何かを期待していたのだ。そこに何かがあることを。壺であれ、甕であれ、瓶であれ、中に何かを入れておくものだ。そこに何かが入っているのを期待することはおかしくないだろう。しかしながら、彼の期待は裏切られる。そこには何も入っていなかった。とはいえ、どんなものが入っていたら、彼は満足しただろうか。おそらく、そんなものなどないだろう。どんなものが入っていたとして彼は満足などしなかったに違いない。それはまあいい。彼はそこに期待したものがないことを確かめ、そして、ひとつ息を吐いてその場を離れようとした瞬間に、声を聞いた。あとから考えれば、それは死の声だったということがわかるのだが、その時はそんなことがわかるはずもなかった。それは誰も聞いたことがない声だったからだ。少年は、ただ不思議な声だと思っただけだった。それは普通の発声では出せないような音だった。しかし、ただの物音などではない。もちろん、少年はそう考えようとしたが、耳の奥に入り込み、そこに留まったその音は、何かの物音、物と物がこすれあう音とか、ぶつかる音とかとは違う。間違いなく声であり、言葉であり、意志があり、意味があった。それが伝えたのは死について、そして死に方についてだった。
「中に何があったの?」少年が中を覗く様子を見ていた誰かが少年に尋ねた。
 少年はそれに答えようとした。あの不思議な声の事を。しかし、その特殊な音、声を発声するのは至難の業だった。どうにか発声したものの、それはどう頑張っても蚊の鳴くような声にしかならなかった。聞き取れなかったのだろう、尋ねた人は首をかしげるばかりだった。そこで、少年は尋ねた人の耳元に口を寄せ、耳打ちをするようにその声の言うところを伝えた。まるで、とても大切な秘密を伝えるように。その声は耳打ちされた人に染み込んだ。確実にその耳の穴の奥に入り込み、そしてそこに留まった。
 そして、それからしばらくして少年は死んだ。世界は死を知った。
 人々は驚いた。それは初めて見る死だったからだ。人々はそれを恐れ、それがどういうものなのかを理解したがった。その謎を解き明かしたがった。謎を解明すれば、それを打ち負かすことができるかもしれない。そこで、最後に少年と言葉を交わした者を探し出し、何を聞いたのかを尋ねた。その人は少年がしたように耳打ちでそれを伝えた。そして、ほどなくしてその人は死んだ。それを聞いた人がまた誰かに伝え、死に、それを聞いた人がまた別の誰かにつたえ、と、次々にそれは伝えられ、誰もがその秘密を恐れながら知りたがり、恐れているからこそ知りたがり、そうして死んだ。
 こうして、死が世界に広まった。 


No.209


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