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間違いだらけの人生

 いつからその列に並んでいるのかを、彼は知らなかった。それがどのくらい長い時間かがわからなくなるほど待たされている、というわけではない。本当に、字義通り、彼はそれを知らなかったのだ。気付いた時には彼は列に並んでいた。振り向いてみると、彼の後ろにも長い列ができている。それから察するに、彼が並んでいるのはかなり長い時間ということになりそうだ。
 彼はそこがどこなのかを知らなかった。だだっ広い空間である。何も無い。風景らしい風景がそこには無い。空さえ無いように見える。果たして大地があるのかすら定かではない。それはそうして列に並んで、立っているのだから、地面はあるだろう、と彼が考えるから、地面があるように思えるだけで、本当は地面すらも無いのかもしれない。
 ただ一つ、確かなのは彼の並ぶ行列である。それだけは厳然として存在し、彼はそれに並んでいる。彼はそれが何を待つ列なのかを知らないし、いつから並んでいるのかに関しても同様である。
 近くにいる人間に、ここはどこなのか、この列は何を待っているのか、彼は尋ねてみようとも思うが、自分のいる場所がわからず、しかも訳も分からずに列に並んでいるのが露見するのはなんとも恥ずかしいので、そうしなかった。ただただ待つのみである。といって、することも無いので、とりあえずぼんやりと辺りを見回してみる。すると、列に並んでいる人間の顔の中に、見覚えのあるものがちらほら見つけられた。それは親類縁者の場合もあったし、テレビで見たことのある有名人である場合もあった。共通するのは、どれもこれも故人であるということだ。なるほど、と彼は一人膝を打った。どうやらこれは死者の列らしい。となると、この列の先は天国か地獄か。そんな推測をしていたが、彼はそこでやっと自分が死んでしまっていることに気付いた。列に並んでいるからには死んでいるはずなのだ。生きている時に自分が生きていることを自覚しながら生きている者の少ないように、死んでいる者が死んだ時に自分の死んでいることに気付くのもまた少ないらしい。しかしながら、男はこの事実に突き当たった時、急に不安に駆られ出した。なにせ、呑気に「ははん、この列の先には天国か地獄があるに違いない」などと思っていられるのも、ある部分自分を当事者から外して考えていたからなわけで、これが我が身に降りかかることであると分かれば、自ずからまた違う反応になるものである。
「あわわ、どうしたものか」と慌てふためいたところで詮無いこと。何しろ列は進むし、となると、ところてん方式に押し出されて行くわけで、脇に外れるなんてこともできずに、ズルズルと前進してしまうのだ。そうしてついに彼は門の前に辿り着いた。
 門の前は番所のようになっていて、そこに入らねばならないらしい。彼は鬼でもそこにいるのではないかとビクビクしながらその番所に入ったのだが、いたのは事務員風の男である。机に座り、彼に向かって手を差し出している。なんだろう、握手でも求められているのか、と彼は思ったが、どうやら違うらしい。手を差し出したら首を横に振られた。そして反対の手を指さされた。彼は自分が何か紙の束を手にしているのに気付いた。いつからこんなものを持っていたのか、もちろん彼にはわからない。彼はそれに目をやったが、彼には読めない文字でそれは書いてあったので、彼がもしそれを持っていることに気付いていたとしても、それを読むことはできなかっただろう。
 その紙の束を事務員風の男に彼は手渡した。すると、男は赤ペンを取り出し、それに丸やバツを付けて行き出した。ペンが紙を走るシャッ、という音だけが部屋の中に響く。彼はそれを黙って見守っていた。なにやらバツの多いように見えた。そうしてじっと見ていると、訳の分からない文字だったはずのものが、次第に、焦点の合うように、意味が理解できるようになってきた。
 それは彼の生きている頃の行状であった。アレやコレや、細大漏らさずにそこには記されているようだ。彼自身も忘れていたような事柄までそこには載っていた。
 もちろん、彼の一大決断もそこには記されていた。バツである。彼自身は、その決断を後悔はしていなかった。そして、その決断で自分は幸せになったと信じていた。それがバツである。
 あの仕事を選んだこと、あの女と一緒になったこと、あそこでああ答えたこと。バツである。もしかしたら、バツが正解という意味かもしれない、なにしろ、見たこともない文字が使われているのだ、記号だって自分の知っているものとは違うのかもしれない、と彼は自分に言い聞かせたのだが、理由はわからないが、もう文字は理解ができるものになっているわけで、それと同じようにバツが何を意味するのかが彼には理解出来ていた。バツはバツである。
 バツ、バツ、バツ。たまにある丸も、彼としてはどうでもいいような事柄に関してである。彼が下した決断はバツばかりである。
「後悔なんてしていないのだよ」と彼は男に向かって言った。「だからいいじゃないか」
 男は彼の言葉が耳に入らなかったかのように採点を続けた。
「やめてくれ」彼は言った。「もうやめてくれないか」
 男はやめない。
「間違いだらけの人生だったなんて言わないでくれ」
 最後の一枚まで丸付けが終わり、それを男は彼に差し出した。そして、奥の扉を指差した。
「行けと?」
 男は頷いた。
 彼はヨロヨロと扉に向かって歩いていった。そして、扉を開けるわけだが、その先が天国だろうと地獄だろうと、すでに彼にはどうでもよくなっていた。


No.320

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