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すべてを失っていない男


 目覚めた瞬間に違和感があった。開いた目の捉えた天井が見慣れないものだったからだ。前夜を思い出そうとする。どこかに出張に出た記憶は無い。家族旅行にも出ていない。ホテルや旅館で目覚めたとき、それと同じような違和感を覚えることが以前にもあった。そのときには、すぐに前日までのことを思い出してその混乱は解消されたものだったのだ。しかし、今回は違う。男がどれだけ考えても、前夜は自宅で床に就いたはずなのだ。
「ここはどこだ?」男は思わずつぶやいた。違和感があった。自分のその声が、耳にしたことのない声だったからだ。男はのどを押さえ、何度か適当に声を出した。何度声を出しても、違和感は消えなかった。
 男はベッドから出ると、その見知らぬ部屋の真ん中に立ち、周りを見渡した。自分の姿を見る。Tシャツに短パン、果たしてそれが自分の所有物なのかどうか自信がない。どこにでもありそうな代物である。カーテンの隙間からは朝の日差しが差し込んでいる。机がある。その上にはなにも置かれていない。引き出しを順番に開けていくが、どれも空っぽだ。ペンの一本すら入っていない。
 クローゼットを開く。中には同じ背広が何着も吊り下げられていた。これといった特徴のない背広で、どこかに名前が刺繍されていないか調べたがなかった。
 男は足音を忍ばせ、窓の近くに立った。カーテンの隙間から外を見る。窓からは車通りの多い道が見下ろせた。乗客を満載したバスが走って行く。自転車に乗った学生。時計を見ながら足早に歩くスーツ姿の女性。それはどこにでもありそうな朝の風景だった。
「ここはどこだ?」男はつぶやいた。相変わらず違和感のある声だったが、そんなことにはかまっていられない。なにしろ、なにからなにまで違和感しかないのだ。
 それが異常事態であることを、男は認めざるをえなかった。なにか異常なことが自分の身にふりかかっている。なにかが異常だが、なにが正常なのかもわからない。
 妻と娘は? 男は思った。男には妻と娘がいた。美しく賢く優しい妻と、まだ幼いながら、その妻の血を引いたことが一目瞭然なくらい美しい娘。ふたりとも男のなににも変えられない大切な存在である。ふたりと過ごす平凡ではありながら幸福な日々、それは宝物と呼んでいい。
 自分の身に起きている異常事態が、妻と娘にもふりかかっているのではないか。男は不安にかられ、矢も盾もたまらず部屋から飛び出した。
 そこには、見知らぬ女が立っていた。若い女で、地味なスーツを着ている。
「どこに行くんです?」女は言った。冷淡な口調だ。
「あんたは誰だ?」男は言った。言葉には怒気がこもっている。「これはあんたの仕業か? 妻と娘はどうした?」
 女はクリップボードを取り出し、紙をめくり始めた。そして、声を漏らす。「ああ」
 男は女に詰め寄る。女は顔を上げず、目だけでそれを見る。
「それは」と、女はクリップボードから顔を上げないで言った。「前回あなたが出た物語での設定ですね。美しい妻と娘、大企業勤務、持ち家、車は外国車でした」
「どういうことだ?」男の体から血の気が引いていく。
「あなたは物語の登場人物です。いろんな物語に使いまわしされる。役者みたいなものですけど、もっと都合よく使われているかもしれません。まあ、それはわたしも同じですけど。ええと、他に質問は?」
 男は頭を抱えて座り込んだ。理解ができなかった。物語? なんの話だ?
「いまなら、このお話です」女は言った。「前回はなかなかいい役回りだったみたいですけど、今回は散々でしたね。わけのわからないお話に翻弄されて」
「妻も、娘も存在しないのか?」男は弱々しい声で尋ねた。
 女は肩をすくめた。「どちらとも言えますね。あるお話では、あなたの妻と娘は存在した。ただ、それだけです。彼女たちも、また別の役回りでお話に登場するんじゃないですかね、きっと」
「すべて失った」男は言った。
「あなたはなにも失ってなんかいません」女は首を横に振った。「あなたはなにも失うなんてできない」



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