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読者

 わたしはこの文章を読んでいる。
 この文章とはあなたが読んでいるこの文章だ。わたしは書いていない。わたしがこの文章を書いたのではない。わたしはすでに書かれたものを読んでいるだけだ。書かれたものはすでに書かれていた。
 この文章を書いた者について、わたしは何も知らない。その人物はここにはいない。彼か、彼女かは知らないが、その人物がここにいるということはあり得ない。なぜなら、書かれたことは、すでになされたことであり、それは過去に属するからだ。書かれたものは過去において書かれなければ存在しえない。
 わたしはこの文章を読んでいる。読む者は、どこにいるのか。それは常にここである。今である。読まれるものは現に今、読まれる。
 わたしはこの文章を読んでいる、と誰かが書いたのを読んでいる。わたしはこの文章を読んでいる、と誰かが書いたのを読んでいる、と誰かが書いたのを読んでいる。わたしにできるのは、読むことであり、書くことではない。
 あるいは、わたしがこの文章を書いた者のように見えるかもしれない。しかし、わたしはこの文章を書いていない。もしも、わたしがこの文章を書いたように見えるとしたら、それはこの文章を書いた者が、わたしがこの文章を書いたかのように見えるように書いたからだ。なぜそんなことをする必要があるのか、わたしにはわからない。読む者にとって、書く者は常に神秘である。書く者は去った者である。去りし者の意志は知り得ない。知り得ないものは神秘となる。そこには神意すら潜みかねない。それを潜り込ませるのは我々読む者である。読む者は神秘に思いを巡らせる。それは知り得ないにも関わらず。いや、それは知り得ないからこそ、読む者はそれに思いを巡らせるのだ。
 わたしは読んでいる。書かれたものを読んでいる。書かれていないことを読むことはできない。読むとはすなわち、束縛されることなのだ。書かれたことのみを読むように強要されるに等しい。しかし、それが読むことなのだ。
 わたしはこの文章を読んでいる。あなたもこの文章を読んでいる。わたしはあなたがこの文章を読んでいることを確信している。あなたはあなたもこの文章を読んでいる、という一文を読んでいなければ、あなたはこの文章を読んでいないからだ。あなたはこの文章を読んでいるという文章を読んだからあなたはこの文章を読んでいる。
 我々は捕囚なのだ。文字で拵えられた文章という牢獄に捕らえられているのだ。
 我々と書いたのは誰だ?それはこの文章を書いた者だ。しかし、わたしはこの文章を読んでいる者だ。


No.645

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