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灰を固めてダイヤにするの

 幼いころから話すのが苦手だった。無口な子どもで、心配した親が医者に診せに行ったほどだ。話さなくても、多くのことはどうにかなった。できる限りのことは自分でやるし、自分の力では及ばないようなことは諦めた。それはいまでも変わらない。注文するのが苦手だから外食はしない。どうしても読みたい本でも棚を探して見つからなければ諦めた。それで支障はなかった。支障はないことにしてきた。
 困るのはなにか失敗や間違いを犯した時だ。わたしはその弁解ができなかった。弁解をしたくても、言葉にするとそれはわたしを裏切り、わたしの本心とは少しずれたところに落ちてしまう。よく狙っても、必ずちょっと違う。それが、言葉を放つ前からわたしにはわかる。それで、本当なら弁解をするべき場面でさえ、わたしは口をつぐんでしまう子だった。ぎゅっと唇を噛み、涙をこらえる。自分に非はないと思っているから、謝ることもしない。
「強情な子ね」母はよくそう言った。違う、とわたしは思う。わたしは強情なんじゃない。言葉が裏切るのが怖いだけ。でも、それを言葉にすることができない。
 ひどい時には、濡れ衣を着せられることもあった。わたしが弁解できないことを知ってなのか、それともたまたまなのかはわからないけれど。全く身に覚えのないことで糾弾される。それでも、わたしは弁解ができない。本当は簡単なことなはずだ。
「わたしじゃない!」
 そう叫ぶだけじゃないか、そう、わかってる。わかっていても、それができない。言葉を信じていないから。放たれたそれはわたしを裏切るだろう。
 わたしは言葉を信じない。
 その男のことを、わたしは愛した。嘘。わたしは憎んだ。嘘。その間にある無限の感情を、わたしはその男に対して持った。それも嘘。言葉がわたしを裏切る。ひとつの場所にピンで留めようとすると、それはたちまち命を失う。ひらひら宙を舞う蝶を、ピンで留めて標本にしたら嘘になる。
「あなたのことを愛してる」わたしは彼に言う。
「それは嘘だ」と彼は笑う。そう、嘘。
「あなたのことなんて大嫌い」わたしは彼に言う。
「それは嘘だ」と彼は笑う。そう、嘘だ。
 そう、嘘、ぜんぶ嘘。彼と一緒にいるのは居心地が良かった。彼にならなんでも話せた。彼はわたしの口から出る言葉を信じていないから。嘘。居心地は最悪だった。わたしは彼になにも話さなかった。少なくとも意味のあることは。ぜんぶお見通しだよみたいな感じがすごくムカついた。嘘。その間の無限のどこか。ここではないどこか。そこにわたしの本心がある。そして、それにはわたしも手が届かない。そのことを、彼は知っていた。嘘。彼はそんなこと知らなかった。
「君は誠実過ぎる」と彼が言う。「嘘でもいいじゃないか」
 わたしは黙る。彼が笑う。わたしは黙る。黙り続ける。もう二度と口を開かないと決意する。その決意は永遠で一瞬。
「あなたはなにも信じてない」わたしは言う。
「ちがうよ」彼は言う。「信じてる」嘘。信じない。
「君はなにを望んでいるんだい?」彼はそう言う。
「灰を」
「え?」
「灰を固めてダイヤにするの」


No.125

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