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冒険が呼んでいる

 男は誰かと勘違いされて、それを訂正できぬまま、曖昧な返事を繰り返すうちに、どうやらその勘違いした相手は確信を強めてしまったらしく、そうなるとさらにいまさら前言撤回などできず、ええい、ままよ、と勘違いされた人物を演じ通すことを決意した。
「命が危ないこともあったでしょう?」
「いやいや、そんな大したことは」
「そんなまたご謙遜を。あなたがされた冒険の数々は有名ですよ」
 どうやら男はとある有名冒険家と勘違いされたらしい。
「いやいや、過ぎてみればなんてことはありません。確かにその時は辛いこともありますがね。まあ、人生みたいなもんです」とかなんとかもっともらしいことを口にして、どうにかやり過ごそうとしたのだが、そう上手くはいかない。
「一つ冒険の話をしてくれやしませんかね?ちょうど今晩集まりがあるので」云々かんぬん。いやいや、そんな人様に聞かすような話はありません、とか言っても聞く耳を持ってもらえない。むしろ自分の業績をひけらかさない高潔な人間だなどと思われ、この場を取り繕えばどうにかなるだろうと高をくくって演じたりした自分が悔やまれる。相手はさぞかし期待している様子、ここで実は別人です、と告白したらどうなるだろう?この調子ではきっと信じてもらえまい。
 相手が軽い感じで集まりと言っていたものだから、ちょっとした集いに違いないと男は思っていたのだが、蓋を開けてみれば豪華な講堂、客席には聴衆がぎっしり、演壇の上の垂れ幕の惹句も華々しい。ここまでくると後には引けない。男は腹をくくった。大股で登壇し、水を一口ゴクリ、聴衆を見渡し、第一声。
「世界は実に広く、様々な驚異に満ち溢れています」とまるで見てきたかのように。聴衆は男の語りに真剣な顔で耳を傾けている。どうやら男のこの一言を信じたらしいのが男にも感じ取れて、それは自信になった。
 それから語られる冒険潭、最初は航海の苦難や砂漠の渇きなど、ありそうなものだったのが、固唾を呑みながら聞いている聴衆を見て男は調子に乗った。密林で出会った頭が三つある猛獣との格闘、巨大な海獣に船を沈められそうになった話、異国風の美女との恋、次々とホラ話が男の口から飛び出してくる。聴衆は身動ぎ一つしない。ついにホラ話が尽きて、男が口をつぐむ。やんややんや、万雷の拍手。聴衆は男に握手を求め、尊敬の眼差しで見た。
 聴衆は男に、この土地に留まってもっと話をしてくれとせがんだ。同じ話を繰り返しするのでも構わないとも言った。ところが、男の側としてみれば、勢いに任せて喋っただけで、もう一度、と言われても自分が何を話したかはっきり覚えていないし、では他の話、となっても、それこそ腹をくくって、崖から飛び降りるくらいのつもりでやったことで、それをまたやる勇気なんて、とてもではないが奮い起こせそうになかった。
 だから男は「次の冒険が呼んでいる」とかなんとか、そそくさとその土地を後にした。後ろめたさを残して。
 それから十年が経った。男はその十年間で自分がした大ボラの冒険譚のことなどすっかり忘れていた。ただ淡々と日々を過ごし、気付けば十年。
 そんなある日、男が酒場で酒を飲んでいると声をかけてくる青年があった。青年は男のことを冒険家だと思っているらしかった。男の記憶が、稲妻のように蘇った。
「あの時の話を聞いたのか?」男は自分のしたそれが大嘘であるのが露見したのではないかと恐れた。
「ええ」青年は微笑みながら頷いた。「あの話を聞いて、ぼくは広い世界をこの目で見てみたいと思って、冒険家になったんです」
 青年は自分がこれまでしてきた冒険について話して聞かせてくれた。星々に導かれての航海、砂嵐で身動きとれなくなった時のこと、険しい山の頂で見た朝焼け。
「頭が三つある獣にはまだ出会っていませんけど」と言って青年は笑った、その笑顔に嫌味は感じられず、純粋に信じるそれだった。世界は広く、新しい驚異がまだまだたくさんあるということを。
 男はやおら立ち上がった。
「どうしたんです?」
「新しい冒険が呼んでいるんだ!」
 男は青年をその場に残し、酒場から飛び出した。
 こうして男は冒険家になった。




No.178

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