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なにかとてもうつくしいもの

「ママにいいものあげるよ」と、息子が言った。夕食の支度をしているあいだ、なにかを必死で書いているのは横目で見てわかっていたけれど、なにを書いているのかはわからなかった。絵を描くのはもともと好きだった息子だから、なにか絵を描いたものをくれるのだろうかと思ったけれど、最近はひらがなを覚え始めて、それを使ってみたい盛りだ。もしかしたら、なにか手紙なのかもしれない。
「いいものって」と、わたしは食卓に夕食を並べながら尋ねる。「なあに?」
「ひみつ」と、息子。食卓の席に着くなり、牛乳を一気に飲み干す。左手にはなにかを握っている。それがわたしにプレゼントしようと思っているものらしい。「おかわりちょうだい」
「ごはんちゃんと食べてよ」と、わたしは牛乳を注ぎながら言う。好き嫌いは多いし、食が細くて困る。「牛乳だけでお腹いっぱいにしないでよ」
「わかってる」と、息子。牛乳には一口だけ口をつけた。
「ひみつって」と、わたしは自分の席に着きながら言った。「でも、それをわたしにくれるんでしょ?」
「うん」と、息子はハンバーグを頬張りながら答えた。
「ニンジンも食べて」
「えー」
「くれるなら」と、わたしはニンジンを箸の先で小さくしながら言った。「わかっちゃうじゃない。ひみつにしても」
「でも、ひみつ」
「どうして?」
「ひみつはひみつ」
 そうして、息子はひみつの贈り物を手に握りしめながら食事をした。見ないから置いて食事をするように何度も促したが、息子はかたくなだった。絶対にそれを開こうとはしなかった。そうして、食事を終え、お風呂に入るとなっても、それを開こうとしないのには驚いた。
「濡れちゃうよ」
「ぎゅって握ってるから大丈夫」
「見ないから、どこかに置いときなさいよ」
「いやだ」
 言い出したら聞かない息子だ。わたしが諦めて、息子のしたいようにさせるのが得策なのだ。結局、息子はなにかを握った手を開かずに、わたしが頭も体も洗ってあげることになったのだった。
 そうして、お風呂上り、テレビを見ながら髪を乾かしていると、息子は気づいた時には寝息を立てていた。それでも、その手は固く握られている。わたしは息子を抱え上げ、寝室に運ぶ。ベッドに横たえ、布団をかけてやる。手は、相変わらず握られているけれど、さすがに少しその力も緩んできたようだ。指の隙間から、紙の白さが垣間見えた。
 わたしは逡巡した。眠っている息子の指を開き、中を見るのは、あれほどまでにかたくなにひみつを守り抜こうとした息子の、それこそ寝首をかこうとしているのと同じように思えたのだ。裏切りのようでもあるし、不意打ちのようでもある。ズルをしないように教えている手前、自分がそういう不正のようなことをしそうになると、つい立ち止まるのが癖になった。
 しかしながら、それは息子がわたしに贈ろうとしていたものなのだ。散々じらされたけれど、最後にはわたしのものになるのだ。少なくとも、そのはずだった。なら、見てもいいのではないだろうか。なんと言っても、好奇心には勝てない。息子はなにを書いたのだろう。
 息子の指をそっと開いていく。息子はなにも気づかずに寝息を立て続けている。耳元をくすぐるような寝息。そして、指が開かれ、中から紙片が出て来た。
 いや、紙片だったものというのが正確だろう。かつて、紙だったもの。それはあまりに長く強く握りしめられていたせいで、もうグジャグジャになって、ひと塊になっていて、そこに書かれたなにかは完全に滲んでしまっていて、判読不可能だった。絵が描かれていたのか、文字が書かれていたのかすらわからない。
 わたしは小さく笑いをもらした。息子は寝息を立てている。わたしはその頭を撫でる。息子がそれほど強く握りしめて大切にしていたそれは、間違いなくとてもいいものだったのだ。
 それは、なにかとても美しいものだった。


No.548


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