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星を繋ぐ

 祖父に星を見たいから外へ連れ出してほしいと言われた時、わたしは首を傾げた。祖父にはわたしのその首を傾げる姿は見えていない。なぜなら、祖父は盲目なのだから。盲目なのに、星を見ることなんてできるだろうか。できるはずがない。
 夏休みと冬休みの年二回、わたしの家族は母の実家に帰省した。父の方へは行ったことがない。そこには複雑な大人の事情のようなものがあるようだったが、小さい頃には知る由もないし、事情が呑み込めるくらいになってからは別に知りたいとも思わなくなっていた。人それぞれ事情はあるし、それは当人同士しか理解できないことの場合が圧倒的に多い。たとえ、それが自分の両親であっても。
 母の実家は、電車を何度も乗り継ぎ、バスに乗って半日がかりの小旅行の末に着くといったような、僻地にあった。母はそれでも便利になった方だと言った。
「私がまだ小さい頃には、二日はかかったのよ」
 そんな田舎に、祖父と祖母は二人で暮らしていた。車で三十分も行った市街地に、母の兄が暮らしていて、そこで一緒に住もうといくら言っても、母の両親はそれを聞き入れないらしい。
「根っこが生えちゃったのね」と母はよく言った。「あの土地から離れられなくなっちゃったのよ」
 正直な話、わたしは祖父母の家があまり好きではなかった。祖父母の住む家は山奥にあり、その建物は古びてボロボロだし、異常に大きな蛾蛾こちら目掛けて飛んで来たりもする。トイレは汲み取り式で、夜になると壁にヤモリが姿を見せた。都会育ちのわたしは、そんないちいちに悲鳴を上げて祖母を驚かせた。
 祖父も祖母もかなりの高齢だったが、足取りはしっかりしていたし、腰が曲がったりもしていなかった。多少耳は遠いような感じもしたけれど、物忘れをしたりもしないし、実にしっかりしたものだったと思う。母はそれはずっと野良仕事をしていたからだと説明した。ただ一つ、祖父の目が見えないという点を除けば、祖父母にはなんの不安材料もないのではないかと思えた。
 祖父は盲目ながらも、日常の身の回りの世話に関しては全て自分でこなしたし、野良仕事もやった。祖母の世話になるということもなかった。それでもさすがに、外出するとなると助けが必要だったし、まさか車の運転などできはしない。そこが母たちの心配の種だった。人里離れた場所で、祖母が急病にでもかかったらどうなるだろう。もし患うのが祖父であれば、祖母が車で病院まで連れて行くだろう。祖母は免許を持っていて、荒っぽいながらもとりあえず車の運転ができた。それができないとその土地での生活がままならないからだ。祖父は車の運転はできないし、電話を掛けるのも少し苦手だった。それは心配にもなる。
 とは言え、いくら心配でも、当の本人たちが動きたくないと言うのだから、それはそれで仕方なくもある。そして、その娘である母は、年に二回しかそこを訪れられない。それもそれで仕方ないのだろう。
 その家は好きになれなかったが、わたしは祖父母のことは好きだった。別に何かをしてもらったなんてことはないけれど、たまにしか会わないにも関わらず、一緒にいて気詰まりになるなんてことはなかった。祖母のする話は楽しかったし、祖父は無口な人だったけれど、一緒にいて居心地を悪くさせる人ではなかった。もしかすると、祖父が盲目であるということが、少なからず影響していたのかもしれない。こちらの姿が見えないというのは、気楽ではあったと思う。
 わたしは祖父と二人っきりになると、彼の顔を見ていた。祖父の左の頬骨の辺りには傷痕があった。それは祖父が戦争に行った時に負った傷だという話だった。塹壕から何の気なしに顔を出した瞬間、その目の前で手榴弾が炸裂したのだという。その結果、祖父の目は光を失い、頬に傷痕ができた。祖父の兄は、同じように戦争で、右手の指を三本失って帰って来たそうだ。目の見えない人生と、指を欠いた人生、どちらもわたしには想像ができなかった。
 冬のある晩、皆寝静まっていた中、わたしは祖父の声で起こされた。祖父は唇にそっと人差し指を当てた。そして声を低め、星を見るために外へ連れ出してほしいというのだ。普段なら、夜中に一人で家を抜け出し、見晴らしのいい山の中腹まで行けるのだが、二三日前に強い風の吹いた日があり、倒木でもあればさすがにそこにたどり着くのに骨が折れる。だから付いてきてほしいと。祖父は外套を着込み、首にはマフラーを巻いている。そこでわたしは首を傾げたわけだが、それはもちろん祖父には見えていない。そして、そのあとに頷いた。それも祖父には見えていないことに気付き、わたしはすぐに声に出して返事をした。
「はい」と。
 わたしはダウンジャケットを着て、首にマフラーを巻いた。祖父が星を見ることなんてあるのか、半信半疑ではあったが、できることなら祖父の願いを叶えてあげたいと思ったのだ。
外に出ると、途端に耳が痛くなった。少し風が吹けば耳が凍り付いて取れてしまうんではないかと思うほど。祖父は迷うことな山道を目指して歩いて行き、わたしはそのあとを懐中電灯を持って、その道を照らしながら歩いた。祖父はまるで目の見える人のように歩いた。うかうかしていると置いて行かれかねないくらいだった。心配していた倒木はなかった。いくつか折れた枝が転がっていて、わたしはそれを取り除き祖父の進路を確保した。
 しばらく歩くと、見晴らしのいい高台に出た。祖父はそこで立ち止まった。そして夜空を見上げた。わたしもそれを見習い空を見上げた。そこにはわたしがそれまでに見たこともないほどに多くの星がまたたいていた。空一面星なのだ。わたしが普段暮らしているところでは、申し訳程度に輝いていたものが、ここではキラキラと音を立てんばかりにまたたいている。それはなんだか暴力的ですらあるように感じられた。
 祖父はわたしに時刻を尋ねた。わたしが教えると、祖父は夜空を指差した。その先には星がまたたいていた。そして次々と星をつなぎ合わせ、夜空に星座を作って見せた。祖父の指は過つことがなかった。祖父が指差す先にはちゃんと星が輝いていたのだ。わたしは不思議でならなかった。見えるはずのない星が、まるで見えているかのようなのだ。
「季節と時刻が分かれば」と祖父は言った。「どこに星があるかわかるのだよ」
 祖父は星座を紡いでゆく。わたしが見ていたときには、無秩序で、混沌としていた夜空は、祖父の指によって秩序が生まれ、物語が語られていく。まるで指揮者がオーケストラを束ねるかのように。わたしには読み取れない音符の列を、美しい音楽に精製するように。
 祖父の頬は、乙女のように紅潮していた。祖父は夢中で星を見ていたのだ。その少年のような横顔を見ていると、祖父は子供の頃から星が好きだったことが尋ねなくともわかった。おそらく、毎晩毎晩夜空を見上げて星を見ていたのだろう。この天球が、自分の庭になるくらい、長く、深く。もしかしたら、祖父が兵隊として送られた戦地でも。そんなことを考えると、わたしは胸が痛くなった。祖父の目が見えなくなった時の絶望はどのくらい深かったろう。
 満天の星空の中を、一つ動いていく光源があった。おそらく旅客機だろう。明かりを明滅させながら、夜空を横切っていく。あれは祖父には見えていないのだな、と思った。
 旅客機を見ながら、あそこに人がいるのか、とわたしは思った。あちらはここに人がいて、こうして見ていることなど知る由もあるまい。星たちは、わたしたちがこうして見ていることを知っているだろうか。

No.115

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