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催眠術師の愛

 催眠術師は腕利きの催眠術師として有名だった。催眠術師に催眠術をかけられた人間は、「犬になる」と言われれば犬になったし、「猫になる」と言われれば猫になった。馬にも牛にも魚にもできた。魚にしてしまうと、水に入れてやらなければ窒息してしまうので、滅多に魚にしたりはしなかったが。椅子を犬にしたのを見た、と言う者もいた。椅子に催眠術を施すと、四本の脚で駆け回り、椅子の背から吠え声を上げたという。水に催眠術を施してワインにすることも可能ではないかと人々は口々に噂した。まるで神の御業。人々は催眠術師を怖れながら敬った。催眠術師に高所恐怖症を治してもらったり、心配性を取り除いてもらったり。ある者は、外国語を喋れるようにしてほしいと催眠術師に依頼した。さすがに無理難題だろうと人々は思ったが、催眠術師は難なくそれをやってのけた。依頼した人間は子供の頃から喋っていたかのように流暢に外国語を話すようになった。
 催眠術師には美しい妻がいた。すれ違った時、男も女も必ず振り返るような美しい女だ。彼女は催眠術師のことを深く愛していた。催眠術師も妻を愛していた。しかし、催眠術師は時折、妻にこう言った。
「お前の愛は偽りの愛だ」
 妻は悲しげに「なぜそんなことを言うの?」と催眠術師に尋ねる。
 催眠術師は何も答えない。催眠術師には妻には決して言えない秘密があったのだ。
 催眠術師がまだ夫になる前、妻が妻となる前、催眠術師がまだただの男であり、その妻がまだただの女だった頃、男は女に恋をしていた。女は男に見向きもしなかった。別に女が相手の懐具合や、地位やその他諸々のステータスになびくタチで、男にそれが無かったからではない。ただ単に、男が女の好みに合わなかっただけだ。それは叶わぬ恋だった。恋に懊悩する男は毎夜一睡もできずに、朝を迎えた。
 その頃から、男は完璧な催眠術の技術を持っていた。それならば、誰だってそうするだろう。催眠術師はそれを女に使い、自分を愛するようにしたのだ。「お前は俺を愛している」それは強力な催眠術で、おそらく死ぬまで解けないだろう。
「私のあなたを愛する気持ちは本物よ」と催眠術師の妻は涙をハラハラと流す。美しい涙だ。催眠術師の胸は痛む。いっそ、秘密を暴露してしまおうかと思う。
「お前が俺を愛しているというのは、催眠術による思い込みだよ」
 そう想像して、催眠術師はぞくぞくとする。妻を失うことになるかもしれないが、呵責に耐え続けるよりはマシではないか。しかし、結局そんなことは言えない。催眠術師は妻を失いたくないのだ。それを愛と呼べるかはさておき。
 そこで、催眠術師は自分に催眠術をかけることにした。妻に催眠術をかけたことを忘れる催眠術を。そして、催眠術師はそれを見事に忘れた。
 催眠術師は、自分は妻を心の底から愛していると思っている。催眠術師の妻は、自分は夫を心の底から愛していると思っている。

No.182

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