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七階

「君の仕事は」とわたしの雇い主は言った。「一階から六階までの見回りだ」
「わたしの仕事は」とわたしは復唱した。「一階から六階までの見回り」
「そして」とわたしの雇い主は続けた。「八階から十二階までの見回りだ」
「七階は?」とわたしは尋ねた。雇い主は首を横に振った。ゆっくりと、右へ、左へ、そして右、また左へ。
「七階は必要ない」と雇い主は言った。いかなる感情も交えない無機質な口調だ。「七階には立ち入らないでくれたまえ。君の仕事は一階から六階まで、そして八階から十二階までの見回りだ。君の仕事はそれ以上でもそれ以下でもない。過不足なくそれだけの仕事をしてくれたまえ」
 わたしは頷いた。わたしはわたしの仕事をし、それに見あった対価が得られればいい。雇い主が仕事だという仕事をすればいいのだ。だがしかし、なぜ七階だけは見回らなくていいのか、多少不思議に思う気持ちもあった。まあ、それが人情だろう。しかしながら、それを尋ねるのは憚られた。機嫌を損ねてクビになったりしたらことだ。
 わたしが夜間の警備などという職に就かなければならなかった理由には一言では言い尽くせない。まあ、平たく言えば、前の職場をクビにされたわけなのだが、わたしは悪くない。わたしは悪くないのにクビにされたのは納得できなかったが、公式に向こう側に落ち度が無いことが認められてしまったのだ。誰も彼もがそれを、わたしの落ち度という話を認めてしまった。そうなってしまってはわたしにどうすることができよう。わたしは公式に悪者になったわけで、となるとわたしが悪かったのだ。とりあえず言われたのは、言い訳はやめろということだったが、わたしは悪くない。悪くないものは悪くない。まあ、もうやめよう。背に腹は代えられないし、腹が減っては戦ができない。どんな仕事であれ、金がもらえればやらねばならない。金がなければ飯は食えない。金が物言う世の中だ。かくしてわたしは夜間の警備をすることになったのだ。もちろん、夜間の警備という職業だって誇るべきものだろう。胸をはっていいものだ。少なくとも、わたしはそう思おうとしている。
 その建物に、わたしは一人だった。昼間には多くの人が働く建物だが、終業後にはわたし一人になる。まるで裏側の世界に迷いこんでしまったかのような気分だった。わたしは人の眠って休んでいる時刻に起きて働く。人々はわたしが眠って休んでいる時刻に人々は起きて働いているのだ。わたしはわたし一人の世界に幽閉されてしまったようだった。ようではない。実際そうなのだろう。だが、わたしは生きていかなければならず、そのためには食べなければならず、そのためには金を稼がなければならない。そのためであれば、それが夜に幽閉されていようと、四次元空間に飛ばされようと働かねばならない。そこまでして生きるのか、という問いは愚問だ。わたしにはそんな度胸はない。
 そんな臆病者のわたしは、好奇心がくすぐられはしたものの、七階を覗いてみることはしなかった。見るなと言われれば見たくなるのは人情だ。だが、見るなと言うのは、見てはならないものがあるからなのだろう。それがなんであれ、見てはならないものは怖い。見てしまったのが露見した場合も怖い。わたしは怒られるのが嫌いだ。まさかそれが好きな人間もいないだろうけど、それほどこたえないという人ならいるかもしれない。わたしにはそれがとてもではないがたえられない。別にこれまでの人生が怒られたり叱られたりといったことの無いものだったかといえば、まあそんなことはない。失敗やミスはたくさん犯してきた。あるいは、人一倍。ただ、できる限りその種怒られたり叱られたりといったことから逃れようとしただけだ。だから、わたしは七階を見ようとはしなかった。
 わたしが六階の見回りをしていると、よく七階から足音が聞こえた。それは一人のものではなかった。もしかしたら人間の足音ではないかもしれない。それはなんだか四つ足動物のそれのような気がしないでもなかった。とにかく、足音だけでは七階に何があるのか、わたしにはわからなかった。しかしながら、七階になにかがいるのもまた確かだった。何者かが、いる。
 しかし、わたしは七階を覗いてみることはしなかった。普通の物語の主人公であれば、それを覗き見て、そしてそこから物語が展開していくはずだろう。しかし、わたしはそんなことはしない。残念ながら。諸君を満足させるためにわたしの身を危険に晒す必要があるかね?
 そうして二年ほどそこに勤め、わたしはその仕事を辞めた。今では他の仕事で口に糊している。七階には何があったのか、わたしは知らない。別に知りたくもない。


No.331

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