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わたしのおなかにつまったもの

 夏休み、まだ幼いころのことだ。わたしたち家族は海水浴に向かっているところだった。父がハンドルを握る車は、高速道路の渋滞をやっとのことで抜け、海沿いの道を快調に飛ばしていた。カーラジオからはそのころ流行っていた歌が流れていた。母が助手席でそれに合わせてハミングしていた。時折大人たちの笑い声も聞こえてくる。なにを話しているのか、なにが面白いのかは全然わからなかった。弟はわたしの隣で眠りこけていた。わたしはぼんやりと窓の外を見ていた。海、空、道路。それ以外の世界を神様が作り忘れたみたいにそれしかなかった。たまに大きなトラックとすれ違った。わたしたちの乗る乗用車なんて木の葉なんじゃないかと思うくらい大きなトラック。
 少しまっすぐな道が続くところだった。反対側の車線の、前の方の道の上になにかが落ちているのに気がついた。ビニール袋かなにかかと思ったけど、わたしはそれがなんなのかを確かめたくて、近づくまでずっと見ていた。
 それは、車に轢かれた猫の死骸だった。血が流れ、内臓が飛び出している。ほとんど猫の形は留めていなかったけど、それは間違いなく猫だった。猫だったものだ。もう猫なんて呼べないなにか。
「気持ち悪い」わたしは吐き気を催した。
「車に酔っちゃった?」と、母は後部座席を覗き込みながら言った。あの猫の死骸には気がつかなかったようだ。
「もう少しで着くよ」と、父が言った。父もまた、あの猫の死骸には気づかなかったようだった。
 自分の体の中、胃の中で胃液が渦巻くのを感じた。自分のお腹の中の内臓を想像する。道路にぶちまけられた血だらけの猫のそれ。喉をせり上がっていく感覚。
「もう、ダメ」わたしは朝食を全部戻した。
 史上最悪の海水浴。
 それまで、わたしも人並みに猫が飼いたい、犬が飼いたいと思っていた。動物園のふれあいコーナーでウサギやモルモットに餌をあげるのが好きだったし、放課後、学校で飼っているウサギを眺めていることもよくあった。うちは団地で、動物を飼うことができなかったから、その憧れは募るばかりだった。
 でも、その憧れも消滅した。犬や猫のその中には、あの道路にぶちまけられた内臓が詰まっているのだ。黒い道路をさらに黒く染める血にまみれた内臓が。車の中から、ほんの一瞬見ただけなのに、その臭いが鼻の奥にこびりついて離れないような気がした。生臭い、死の臭い。そして、それはわたしの中にも詰まっているのだ。自分が道路に横たわっている夢を何度も見た。あの猫のように、車に轢かれ、内臓をぶちまけ、ボロ雑巾のように道に横たわっている。そんな夢だ。わたしにできることは無い。どうにか体を動かして、その散らかってしまった内臓をかき集めようとするが、轢かれてボロボロの体が動くはずもなく、ただそれの日に焼かれていくのを見ているだけ、そんな夢だ。
 わたしは肉が食べられなくなった。
 母も、父もとても心配したし、なにが理由なのかを問いただされもしたけど、わたしはそれを話さなかった。なぜか話せなかった。もしもそれがとても些細なこととして扱われでもしたら、わたしは自分がそれに耐えられないような気がしたからかもしれない。本当の理由はわからない。ただ単に、魔法にかかったみたいに話せなかった。他のどんな些細なことも話していたのに。それだけは。
 結局、しばらくして肉は食べられるようになった。それでも、このお腹の中に死が詰まっているという感覚は消えないままだった。
 そして、年月が流れた。わたしは人並みに成長し、人並みに恋をし、妊娠した。自分の体の中で育っていくそれは脅威だった。なんだかエイリアンに体を乗っ取られようとしているみたいな感じ。わたしの意志とは関係のないところで、様々なものが反応し、動く。そして、ついに出産の日を迎えた。
 苦闘の末に産み出したそれは、血と羊水に濡れていた。温もり。湿り気。それを胸の上に載せ、わたしは理解した。あの日見た血は、死でもあったけれど、生でもあったのだ。それは背中合わせで、どちらがどちらと分けられるものではないのだ。
 わたしの腕の中のそれは小さな生であり、また小さな死だった。そして、だからこそ、儚く、とても大切なものだった。


No.516


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