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チェーホフの銃

 引き出しにしまってあった拳銃が無くなった。そこにあったから無くなることができたのだ。もしも最初から無ければ、問題はなかった。問題なのは、それがそこにあったのだが、それが無くなったということだ。最初から無ければよかったのに、と思っても、それはそこにあったのであり、最初から無かったのなら、最初から無ければよかったのに、とは思えない。そこになぜ拳銃があったのか、ということをいまさら考えても後の祭りである。もちろん、理由と原因はあるにしても、それはあったのであり、あったから無くなったのであり、それがあった理由は無くなった理由を説明しない。それは問題が解決した際に問われるのならいいにしても、現時点でそれを言っても解決にならない。それはあったのであり、あったのに無くなったのが問題なのだ。
 拳銃が無くなった。これは困った。
 もしも、拳銃を持っていることが合法であるなら、困りはしなかった。それを持っていることは違法であり、あるいは重罪である。だから困ったのだ。それが誰かに見つかると困る。それがわたしのものであるということはすぐに露見し、そうしてわたしは捕縛されるだろう。いまの地位は失われるに違いない。財産だって、没収されてしまうかもしれない。わたしは無一物の存在になるかもしれない。早く拳銃を見つけなければならない。見つかると困るが見つからないのもまた困る。
 とはいえ、それを人に尋ねるわけにはいかない。
「引き出しに入っていたものが無くなってねえ。それを探しているんだが、心当たりは無いかい?」と、わたしは尋ねる。
「いったい何が入っていたの?」と、尋ねられた人は答える。
「いやね、まあ何でもいいじゃないか」と、わたしは適当にはぐらかす。
「何でもいいったって、それじゃあ心当たりがあるかどうか何も言えないじゃないか。それが何なのかがわからないと」
 だいたいこんな問答になるに違いない。これで探してほしいという方が無理である。もしもこれでわたしがなにを探しているのか分かったとしたら、それはその相手が引き出しから拳銃を奪った犯人であることになる。もしも犯人であれば、それをわたしに悟らすような真似はしないだろう。
 あるいは、こう言ってみるか。
「内密にしてもらいたいのだけれど、実は拳銃を無くしてしまってね」
 もしその相手が、わたしの拳銃を隠し持っていたことを知らない人であるなら、わざわざこちらから自分の罪を打ち明けるなんて馬鹿げている。場合によっては、それをネタにゆすられるかもしれない。他人を簡単に信用できない世の中だ。内密にしてもらいたいと言っただけで内密にしてもらえると考えるなんて、のんきにもほどがある。
 そうなった場合、今のわたしならばいくらかの金額は払う余地がある。まだ捕縛されていないわたしにはそれなりの財産があるのだ。しかし、狡猾なそいつは、わたしをゆすり続けるのだ。一度弱味を握られたらおしまいだ。解決策は一つしかないだろう。消えてもらうしかあるまい。
 そうなると、拳銃の一丁も必要になってくるだろう。もちろん、他の方法がないわけではない。ナイフで一突きでもいいだろうし、毒殺するというのもありだ。しかしながら、わたしの体力と運動神経でナイフを突き立てるような自信はないし、毒を飲ませるように誘導できるかどうかもあやしい。やはり、拳銃が望ましい。狙いをさだめ、引き金を引く。最悪の事態を想像しよう。転ばぬ先の杖である。転んでからでは遅いのだ。
 というわけで、わたしは拳銃を必要としている。


No.562


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