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桃源郷失調症

 桃源郷がどこにあるのかは誰も知らない。しかし、誰もがその存在を確信している。誰もそこを訪れたことがなくても、誰もがその存在を確信しているということがわかるのは、誰もがその桃源郷について熱っぽく語るからだ。それは事あるごとに人々の口の端にのぼる。そして、それは例外なく熱い思いとともに話される。
 ある日、友人に話があると言われて行ってみると桃源郷の話を延々とされた。
「いやぁ、な」
「なんだよ?」
「うん、どうにかしたいね」
「何が?」
「それは、あれだよ、桃源郷」
 そして、桃源郷のすばらしさを縷々に語られた。
「だがな、しかし」
「なんだよ?」
「うん、それだ、桃源郷」
「何が?」
 と今度は桃源郷についての不安が切々と語られたりするのだ。結局、友人の話は終わりが見えず、東の空が白みだす頃やっと解放された。
 これはこの友人に限ったことではなく、誰もがこんな調子なのだ。そして、驚くべきことに、誰も桃源郷に行ったことがない。一説には、桃源郷に一度足を踏み入れようものなら、あまりの快適さに二度と出ていきたくなくなり、生涯をそこで終えるからだというのだ。なるほど、そうであれば、そこを知るものがいぬいこともうなずける。それで桃源郷を経験したものはここにはいないのだと。
 中には桃源郷について懐疑的な人間もいる。それがぼくだ。ぼくはそんなもの存在しないのではないかと思っている。客観的な事実を積み重ねると、その存在が否定されるように思える。
「それって本当にあるのかな?」と尋ねると友人は顔色を変えた。それでもぼくは続ける。「だって、誰も行ったことがないんだぜ」
「何をバカなことを言ってんだよ!」友人は顔を真っ赤にして叫んだ。「あるものはあるんだよ!」
 そして彼は席を立った。それ以来、その友人とは会っていない。きっと嫌われたのだろう。そういうことが、一度となくあった。
「桃源郷失調症ですね」医者はぼくをそう診断した。「さぞかし辛いでしょう?」
「はい」ぼくは頷いた。「胸にポッカリ穴が空いた気分です」
 医者はぼくに胸を見るように促した。ぼくの胸にはポッカリ穴が空いていた。
「それが桃源郷失調症の症状です」
「ぼくはどうしたらいいんでしょう?」
 医者は力なく首を振った。
 穴の空いた胸に様々なものを詰めてみた。金銭や夢、性愛などなど。どれもしっくりこなかった。もしかしたら、量が足りていないのかもしれないと思って、どれもかなりの量を投じたのだけれど、その欠乏感は埋められなかった。それはつまりそういうことなんだろう。それを埋められるのは桃源郷以外には無いのだ。しかし、ぼくにはどうやっても桃源郷を信じることはできないのだ。
「そんなものを信じるなんて愚かだ」ぼくは誰もいない所で呟いた。
「それは愚かだけど幸福だろう」ぼくの胸の穴が囁いた。
 ぼくは目を閉じる。見たこともない桃源郷の景色を思い浮かべる。まぶたの裏の暗闇以外なにも見えない。
 ぼくの胸には穴が空いている。


No.868

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