絶望を免れた子どもたち
絶望の原因はウィルスだった、というニュースが世界を駆け巡った。人々は自分の経験したあの絶望やこの絶望の原因がウィルスという、目に見えない外部からの何者かによるものだったことを知り、なんだ、と拍子抜けした。あれは自分の感情として起きた出来事ではなくて、風邪みたいなものだったんだ。
人々は絶望に効くワクチンが作られることを期待した。それさえあれば、幸せな人生が送れるじゃないか。散発的にワクチンの作成に成功したというニュースが流れ、しばらくすると、それが実は失敗に終わったというニュースに変わり、人々はそのたびに落胆した。絶望まではしなかったけれど。
最終的な研究結果として、絶望のウィルスは幼児期に体内に入ってしまうと二度と追い出せないということが判明した。人々はこの事実にがっかりした。絶望まではしなかったけれど。しかしながら、そうなると幼児期に体内に入れないようにすればいいわけで、これに関しては乳児期の予防接種によって防ぐことができるということがわかった。赤ん坊を持つ母親たちは喜んだ。これで自分の子どもは絶望とは無縁で生きられる。赤ん坊たちは別に喜ばなかった。まだそれを理解するまでにはあれこれ発達していなかったのだ。赤ん坊を持たない人々は、ふーん、くらいの感じだった。
こうして絶望を免れた世代が誕生した。彼らは絶望とは無縁にスクスクと成長した。まあ、そんな小さい頃に絶望なんてそもそもしない。そして、学校へ上がり、様々なことを学んだ。
「こうして」と歴史の教師は彼らに向かって言った。「人類は絶望を克服したのです」人類の達成した偉大なる勝利の歴史である。
「なんてことだ」と絶望を免れた子どもたちは呟いた。「大人たちは、ぼくたちの感じることのできない何かを感じることができるんだ」
絶望を免れた子どもたちは、自分たちの知ることのできない絶望というものに憧れた。多くの文学作品や、映画が禁じられた。それらは絶望を扱っており、むやみに若い者の心を乱す、という理由からだ。隠されるとさらに知りたくなるのが人情。絶望を免れた子どもたちは様々な方法で絶望を体験しようと試みた。進んで道を踏み外し、全てを失ない、泥にまみれ、孤独になってみた。彼らは絶望しなかった。そして彼らは怒りの声を上げた。自分たちに予防接種を受けさせた親たちを糾弾したのだ。
「親たちの横暴で」と絶望を免れた子どもたちは言った。「ぼくらは権利を奪われてしまったのだ」
絶望を免れた子どもたちは、愛とか平和とかを口々に叫び、原色の服を着て、葉っぱを吸ったり、誰彼構わず交わったりした。親たちは困惑した。良かれと思ってやったことだもの、それもそのはずである。絶望なんてしない方がいい、と親たちは言うが、絶望を免れた子どもたちは聞く耳持たない。こんな喧騒がしばらく続いた。
騒ぎの中にいれば気も紛れるが、ひとりになると急に覚めたりするもの。絶望を免れた子どもたちだってそれは同じで、常に誰かがいて喚き散らしていたのが、不意にポツンと一人、ビールの空き瓶や何に使ったかわからない紙屑に囲まれ、取り残された瞬間、絶望を免れた子どもの一人はポツリと呟いた。
「絶望を奪われた人生なんて、はたして生きる価値があるだろうか?」
No.292
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