見出し画像

彼女の嘘

 わたしが彼女についての話をすると、その人は笑い出したくなるのを噛み殺しながらそれを聞いていた。それを見て、わたしは内心腹を立てていた。人の話を聞く態度としてそれはいかがなものか。あるいは、わたしの言動になにかおかしなところでもあったのだろうか。それにしても失礼じゃないか。わたしのそういう感情を、相手も読み取ったのだろう。その人は真面目な顔をして謝った。
「ごめんなさい。あなたを馬鹿にしてるわけじゃないんだ。わたしもそうだったの。彼女の嘘に引っ掛かったの」
「嘘?」
「ええ」と、その人は頷いた。「彼女の話は真っ赤な真っ赤な嘘ばかり。真っ赤で目が痛くなるくらい」
 彼女は自分が都会生まれの都会育ちだと話していた。わたしでも聞いたことがあるくらいの瀟洒な高級住宅街の家の子で、なんて話は全部嘘で、本当は地方の中小企業の経営者の娘だったし、知らない人はいないくらいの超名門校を出たというのも嘘で、本当は最低限の教育しか受けていないし、女優の卵で、オーディションで絶賛され、じきに銀幕にデビューすることになる期待の星であるというのも嘘で、その見目麗しさでお金持ちにお恵みをもらう若い女というのが関の山。
 その人はわたしに彼女の正体を教えてくれた。本当の彼女を、全部。
「そんな風には見えませんでした。わたし、彼女が嘘をついているなんて信じられません」
「彼女の嘘は巧みだから」と、その人は言った。
「嘘」
「嘘」
 たぶん、そのときのわたしはその人のことを信じていなかった。彼女の言ったことのすべてが嘘だなんて、信じられなかったし、信じたくなかった。彼女の笑みが瞼に浮かんだ。それは嘘をついている人間にできる笑みだっただろうか。とてもではないが信じられない。わたしはむしろ、彼女のことを信じていたのだ。
 いつまでもそうやってモヤモヤしていても仕方がない。そこでわたしは彼女のもとを訪ね、真相を明らかにすることにした。彼女と話をし、本当の彼女を明らかにするのだ。彼女が言うことを、嘘か、嘘でないか見極めるのだ。そんなことができるだろうか。誠心誠意向き合えば、できるのではないだろうか。そんなのは甘い考えだろうか。そうかもしれない。しかしながら、信じるとはつまるところそういうことなのだ。人は信じたいことしか信じないだろう。彼女に会って、わたしは真相を明らかにしたいのではなく、改めて信じさせてほしいだけなのかもしれない。ところが、いくら探しても彼女が見付からない。街の中をくまなく探し、彼女の行きそうなところをしらみつぶしにした。彼女の影すら見つからなかった。彼女のことを知る人は多かったが、彼女がどこにいるのかを知っている人はいなかった。
 わたしは憔悴し、夢遊病者のように街をさまよい歩いた。そんなわたしに目を留めた老人が話しかけてきた。
「彼女を探しているのだね?」老人はそう言った。
「ええ」と、わたしは答えた。「なぜそれを?」
「彼女を探す人間はみな今の君のような顔になる」そう言うと、老人は笑った。わたしは自分の頬をさすった。
「君は嘘をつかれたのだよ」老人は言った。
「嘘?」
「彼女が存在するというのは、彼女の嘘さ」


No.602

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?