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いなくなった君

 気づくと、君がいなくなっていた。気づくまで、君がいなくなっていることに気づかなかった。君がいなくなっていることに気づかなかったから、君がいついなくなったのかわからない。気づいたときにはいなくなっていたから、気づく前にいなくなっていたのだろうけれど、君がいなくなったのに気づいたのは、君がいなくなったのに気づいた時なので、君がいついなくなったのかはわからない。
 ぼくはあたりを見渡した。君がいなくなってしまったのに気づいたのは、街の雑踏の中だった。車や、人々の立てる騒音が地鳴りのように響いている。ぼくはあたりを見渡し、君の姿を探したのだった。多くの人が行きかっていたけれど、その中に君の姿は無かった。無かったのだと思う。君を探していたのだけれど、ぼくは君の姿が思い浮かべられなかった。ぼくには君の姿がわからなかった。ぼんやりと、もやがかかっているとか、すりガラスの向こう側のようだとか、そういうのではなく、君の姿が一切思い描けなかった。背は高いのか、低いのか。太っているのか、痩せているのか。髪は長いのか、短いのか。どんな服装のことが多かったか。そういう一切合切がまるで思い描けない。
「どうしたの?」彼女は、ぼくにそう尋ねた。
「誰?」ぼくは尋ねた。
「誰でもいいでしょ」彼女はそう言った。「助けてあげる」
 ぼくは彼女に事情を話した。君がいなくなってしまったこと、ぼくには君の姿がどんなだったのかわからないこと。
「そう」と、彼女は言った。そして、顎に手をあてた。「一緒に探してあげようか?」ぼくはその提案に迷わず頷いた。彼女がいれば君が見つけられると思ったというより、ひとりきりでいるのは不安だったからだ。その時のぼくだったら、もしその相手が凶悪犯だったとしても、一緒にいてほしいと望んだことだろう。それに、彼女はそれなりに親切そうだった。それなりに。
「その人の」と、彼女は伏し目がちに言った。まつ毛がとても長かった。「名前はなんていうの?」
 ぼくは首を横に振った。わからなかったからだ。ぼくは君の名前を知らなかった。それを知ろうと思ったこともなければ、呼びかけようと考えたこともない。それが必要になることがあるなんて思いもしなかった。ぼくは君の名前を知らなかった。
「ずいぶん」と彼女は言った。とても長いまつ毛が揺れている。「傲慢なんだね」そして、クスクスと声を殺して笑った。「名前も知ろうとしないなんて」
 ぼくは肩をすくめるだけしかできなかった。確かにぼくは傲慢なのだろう。君の姿も、名前も知らず、君がいついなくなったのかもわからないで、それでも君を求めているのだ。そんなに傲慢なことがあるだろうか。底抜けに傲慢でなければ、そんなことはできまい。
「その人が」と、彼女はぼくの顔をまっすぐに見据えて言った。「どんな顔をしていたのかを、よく思い出してみて」
 そう言って、彼女はぼくの目をじっと覗き込んだ。まるでぼくの瞳の中に、君が隠れているとでもいうみたいに。そして、それを見つけ出せば、君が姿を見せるかとでもいうみたいに。彼女はじっとぼくの目を見た。ぼくも彼女のその視線から目をそらさず、彼女の目を見た。
 彼女の瞳の中に、ぼくはぼくの姿を認めた。彼女の瞳が、鏡のようになりぼくの姿を映し出していたのだ。
「そこには」と、ぼくはぼくの瞳を覗き込む彼女に言った。「いないと思う」
「どうして?」彼女は首を傾げた。
 ぼくが見ていたのは、君の瞳にうつるぼくの姿だったからだ。ぼくはそこに映し出されたぼく自身の姿だけを見ていたのだ。ぼくが、君の姿を見たことなんて、一度として無かった。ぼくが君の姿を見たことは、ただの一度も無かったのだ。
 ぼくの目から涙が溢れて来た。それは次から次へと溢れ出て来て、地面に落ちた。そこには、君の姿の欠片が混じっていたのだけれど、それはすぐに乾いてしまった。そして、それは永遠に失われたのだった。


No.531


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