見出し画像

ぼくの物語

 世界が終わる以前の写真が引出しの奥から出てきた。そこには無邪気に笑っているぼくがいる。つまりこういうことだ。ぼくはフラれた。写真の中でぼくの隣にいる彼女はいない。いや、この世界のどこかには存在して、今もしっかり息をしていて、食べたり飲んだり眠ったりしているはずだ。もしかしたら、ぼく以外の誰かと一緒に。まあ、それはいい。彼女はもうぼくの物語には出てこない。だから、彼女について語ることは無い。存在しない人物について語ることなどできないのだ。それに、彼女のことを考えると悲しくなって泣きたくなる。
 とはいえ、その写真は確実に存在していた。その中で、ぼくはヘラヘラ笑っているのだ。何がおかしいんだ?この馬鹿者め。ヘラヘラしているんじゃない。ちゃんと現実を見詰めろ。と、写真のぼくに言ってやりたくなる。そして、ぼくはそのヘラヘラしたぼくの隣にいる彼女をじっと見る。彼女も楽しそうである。楽しそうじゃないか。幸せそうじゃないか。何がいけなかったんだ。と思いそうになるが、その気持ちをグッと押さえ込む。そんなことを考えるのは無駄なのだ。それは全て終わったことであり、終わったことをあれこれ思い悩むなんて無駄の極みだ。そもそもそれは、写真の彼女は彼女ではない。それは数種類のインクの混合によって作り出された像に過ぎない。インクの染みだ。ぼくがそれを彼女だと捉えるから、彼女であるように思えるだけだ。それは彼女ではない。
 じゃあ、彼女とはなんであったのか。物質としての彼女が彼女だったのか。それもあるだろう。けれども、それで全てだっただろうか。全てをそれに還元してもいいものだろうか。彼女とは、ぼくが捉えたところの彼女であり、ぼくに現前した現象の総体としての彼女が彼女なのだ。そうなると、インクの染みである彼女とどう違うのだろう。それはぼくが捉えたところの彼女という点で同じではないだろうか。もしかしたら、彼女など存在しなかったのではないだろうか。
「何バカなこと言ってるのよ」
「わっ!」
「わたしはちゃんと存在するわ。あなたのその頭の中だけにいるのかもなんてすっごく馬鹿馬鹿しい」
「何してるんだよ?」
「あんたがバカなこと言ってるから出て来たのよ」
「君なんて本当は存在しないんだ」
「はいはい」
「自分の存在を証明してみろよ」
 こんなバカは相手にするのはやめよう。これを読んでいる人には、わたしが存在することは証明するまでもなくわかってるでしょ?
 あ、勝手に読者に語りかけるんじゃない。これはぼくの物語なんだ。
 はあ。
 なにため息ついてるの?
 そういう勝手なところ、あんたらしいね。
 それはどうも。
 皮肉だよ。
 わかってるよ。
 やれやれ。
 これはぼくが書いているぼくの物語だ。
 ちがうよ。
 え?
 これはわたしが書いているわたしの物語。あんたなんて本当は存在しないの。わたしが暇つぶしに作り出しただけの存在。
 じゃあ。
 悲しい?
 ぼくはフラれてなんかいないんだね。
 うん。
 そうか、よかった。
 と、彼は呟くと、姿を消しました。
 君だって存在しない!
 そうね。
 彼女もまた姿を消した。というより、そもそも誰も存在しない。


No.639


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?