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心ある人

 その科学者は幼い頃から動物が好きで、捨て猫や迷い犬、果ては巣から落ちて親鳥に見放されたカラスを拾ってきて育てたりしたものだから、家は動物たちが駆け回るわ、鳴き声を上げるわで毎日大騒ぎで、彼の両親は頭を抱え、彼を叱りつけもしたが効き目はなく、翌日になれば怪我をした亀をぶら下げて帰って来るものだから、さすがに呆れて、「これは将来動物学者か獣医にでもなるかもしれん」と諦めるしかなかったのだった。
 両親の予想通り、長じて彼は動物学者になった。一流の動物学者である。日夜動物のことを考え続けた彼の右に出る者はいなかった。そして、彼はある研究テーマに取り掛かることにしたのだ。それは、動物の心についての研究である。熱心に研究を続け、寝る間も惜しんでの文字通り、夢中で研究を行った。そしてついに、ちょっとした発表を世界に向けて行っただった。
「動物には心や魂は無い」
 ここまではまだいい。もちろん、これに憤る人も少なからずいるにはいた。動物が魂や心を持つと信じ、彼らの権利を主張する人々がいたし、動物たちの魂や心を信じるからこそそれを保護しようと考える人々もいたからだ。彼らにとって、それは許されざる言葉だった。
 しかしながら、この直後に続く一文こそが、本当に問題になったのだった。
「それは人間という動物もまた例外ではない」
 つまり、人間には心や魂が無い、と彼は言ったのだ。これに対して、人類ほぼ全てから非難の声が上がった。人間の尊厳を貶めるものだと批判された。神を冒涜することだと叫ばれた。悪魔の手先と罵られた。ありとあらゆる誹謗中傷、罵詈雑言、時には脅迫めいた手紙が届き、呪詛の言葉が投げられ、とにかくありとあらゆる心ない言葉が彼に浴びせられた。それもそうだ。なにしろ誰も心を持っていないのだ。愛も憎しみも全て幻である。
「誰も心を持っていないってことは」と彼は愛する妻に語った。「全てはこの脳みそにプログラムされた通りに動いているだけってことさ。もちろん、多少は複雑なプログラムだけど、プログラムはプログラムだ。刺激に対する反応は決まっている。みんなその反応が心だとか魂だとかだと勘違いしているだけなんだ。ぼくたちは何も感じちゃいない。全部錯覚さ」
「そう」と妻は言った。彼女は正直なところなんと言えばいいのかわからなかったのだ。何を言えというのだ。何を言ったところで、それは刺激に対する反射なのだ。少なくとも、彼にとっては。
「誰もこのことに悲しんでなんかいないし、怒ってもいないんだ」
「本当に?」彼女は自分たちの家の外を取り囲む人々を眺めた。掲げられたプラカードには物騒なことが書いてある。
「反射、反応だよ。誰も心を持ってないんだから」
 窓に生卵が投げつけられた。グチャリと殻が割れ、窓ガラスを汚す。
「ぼくはすごくほっとしているんだ」
 今度は小石が窓ガラスを叩く。もうなにが放り込まれてもおかしくはなさそうだ。
「子供の頃から、ぼくはとても悲しかったんだよ。ぼくはたくさんの動物たちを飼っていたんだけど、もし彼らに心があったとしたら、彼らはとても悲しんでいたりするんじゃないかって、不安で。もちろん、ぼくはいつもできる限り、彼らの世話をした。それでも、彼らが悲しんでいないか不安だったんだ。それは人間に対してもそうだった。誰かが悲しんでいたとしたら、とても悲しいだろ?」
 石が窓を破った。妻は身をすくめ、彼は微動だにしなかった。
「でも、ぼくはその悲しみから解放されたんだ。誰も心を持っていない。つまり、誰も悲しんでなんかいないんだ。これで心安らかに眠りにつける」
「でも」と妻は言った。「あなたに安らかになる心はあるの?」

No.285

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