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悲しみの破片

 わたしは悲しかった。悲しくて悲しくて仕方がなかった。とにかく悲しかった。とてもやりきれないほど悲しかった。なにが悲しかったのかはわからない。ただただ悲しかった。悲しんでいる自分が悲しかった。悲しい世界が悲しかった。悲しんでいる自分を悲しんでいることが悲しかった。わたしは悲しかった。
 悲しみながら生きる世界は鈍色で、音はいつもくぐもっていて、甘い飴も、すっぱいレモンも、味がしなかった。わたしはどうにか悲しみから逃げたかった。お酒を飲んだ。酔えなかった。眠ろうとした。まったく眠れなかった。疲れれば眠れるかもしれないと思って、自分自身を疲れさせようと歩いても歩いても、疲れない。足は棒みたいになって、体が鉛のように重たくなっても、わたしはまったく疲れを感じなかった。もちろん、歩いても歩いても、走っても、悲しみから逃れることはできなかった。どんなに足掻き、のたうち回っても、悲しみは消え去らなかった。
 そうして、わたしは朦朧としながら町をさまよい歩いていた。行く当てなんてない。悲しみから逃れられる場所でもあるのなら飛んで行っただろうけれど、きっとそんなところが無いことはわかっていた。
 その時、ひとりの紳士に声を掛けられた。身なりがちゃんとしていて、立ち居振る舞いも完璧、という感じの紳士だ。
「もし、あなた」と、紳士は良く通る低音ボイスでわたしを呼び留めた。「あなた、悲しんでいますな」
「ええ」と、わたしは答えた。
「それもとっても」と、紳士はわたしをじっと見据え言った。
「それはもう」と、わたしは力なく頷いた。「とっても」
「足を」と、紳士。わたしの足を見下ろしている。
「え?」と、わたしはなにを言われているのかわからない。
「足を見させていただいてもよろしいですかな?」
「なぜ?」
「悲しみが」と、紳士は優雅にかがみこみ、ハンカチをそこに広げ、わたしの靴を脱がした。「刺さっているに違いありません」
「足に?」と、わたしは言った。「悲しみが?」
「ええ」と、紳士はわたしの靴下も手際よく脱がす。うっかりすると、気づかないうちに丸裸にされてしまいそうだ。「悲しみは足の親指に刺さるものですよ」
「足の親指?」そんなこと初耳だったわたしは驚く。「胸や、心臓や、頭とかじゃなく?」
 紳士は不思議そうな顔つきでわたしを見上げた。「そんなところに何かが刺さったら、死んでしまうではありませんか?」
「それもそうですね」
「ありましたよ。ほら」と、紳士は懐に手を入れ、ピンセットを取り出した、「少し痛むかもしれません。少しの辛抱です」
「痛い」
「すぐに終わります」紳士はそう言い、そっとピンセットを動かす。「ほら、取れましたよ」
 紳士は立ち上がり、ピンセットを持つ手をわたしの目の前に掲げて見せた。その先につままれていたのは、小さな、ガラスのかけらのようなものだった。尖っていて、透明で、少し青味がかっている。光にかざすとキラキラときらめいて、美しいと言っていいだろう。
「きれい」思わずわたしはそう言った。
「そうでしょう」と、紳士はまるでそれが自分の手柄かのように胸を張って言った。「あなたの悲しみです」
「わたしの悲しみ」
「ええ」と言いながら、紳士はまた懐に手を入れた。取り出したのは小さなガラスの瓶だった。そして、その中にわたしの悲しみをそっと入れた。瓶の底に横たえられたそれは、とても冷たそうに見えた。
「まことに無礼な申し出だとは思いますが」と、紳士は前置きをして言った。「この悲しみを、わたしに譲ってはいただけませんか?もちろん、相応のものをお支払いするという形で」
「わたしの悲しみを」と、わたしは手探りするように言った。「買うってことですか?」
「はい」と、紳士は頷いた。「私、悲しみをコレクションしておりまして。こんなに美しい悲しみにはめったにお目にかかれない。是非とも、お譲りいただきたい」
 わたしは少し迷ったけれど、結局はそれを売ることにした。紳士の提示した金額がかなり魅力的だったからだ。いままでに見たことも無いような金額だった。わたしはそのお金で、おいしいものをたくさん食べて、きれいな服を買って、行ってみたかったところへ旅行した。悲しみが取り除かれたわたしはもう悲しくなくて、おいしいものはおいしかったし、きれいな服には心躍ったし、旅行をすれば楽しかった。あれから、二度と紳士と会うことはなかった。
 わたしは、悲しみが無くなったことを喜んでいいのだと、そう思った。旅行からの帰りの飛行機、窓から外を見ながら、そう思おうとした。ちょうど日の沈むころで、空がとんでもなく美しかった。世界は美しい。悲しいくらいに。ちょっと泣きそうになったけど、我慢した。
 わたしはもう悲しくない。ただなんとなく、虚しいだけだ。


No.418


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