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月光

「今夜、町外れの丘まで来てください」と年下の男の子に耳元で囁かれた。最近新しく職場にやって来た子だ。正直わたしは少し苦手、何かにつけて年齢差を感じさせられる。「お待ちしています」とわたしのそんな気持ちに彼は気付いていない。
 少し躊躇ったものの、結局行ってみることにした。コートを着込み、マフラーを首に巻く。息を吐けば白、夜空には雲一つない。空気が澄んでいるためだろう、星がよく見えた。そして真ん丸の満月、夜道を照らしている。
丘の上で、彼が手を振って待っていた。
「来てくれましたね」と彼は微笑んだ。手には水を張ったバケツを提げている。「すごいものをお見せしようと思いましてね」
「すごいものって」わたしは震えながら「なに?」
すると彼は空いている手を空に上げ、満月を指差した。
「月がどうしたの?」
「月光を」彼はバケツを地面に下ろした。「捕まえる方法を発見したんです」
「月光って、月の光り?」
「ええ」
 何を言っているのだろう、と思った。普段職場では無口な子で、何を考えているのかわからないと思っていたがいよいよ本格的にわからなくなってきた。月光を捕まえる?そもそも光を捕まえるなんてことができるわけがないのではないだろうか。しかし、彼は自信満々だ。
「見ててください」と彼はポケットから小瓶を取り出した。青色の液体で満たされている。その蓋を開け、彼はそれをバケツに注いだ。そして、それをかき混ぜる。わたしは黙ってそれを見ていた。何が起こるのか。
「ちょっと手伝ってもらえますか?」とバケツを持つように言われ、彼の指示に従い、微妙に角度を調整する。
「それでいいです」
 バケツの水面には、満月がゆらゆらと浮かんでいた。彼は腕時計で時間を計った。わたしはそんな彼をじっと見ていた。
「よし」と言うと、今度は懐から濾紙を取り出した。
「これを持っていてもらえますか?」とそれを渡される。「こうして、広げて」
 彼はバケツを持ち、そうして広げた濾紙の上にその中の水を注いだ。
 すると、なんてことだろう、濾紙の上に、キラキラ光る砂のようなものが現れたらのだ。それは今までに見たことのない光だった。触れると忽ち壊れてしまいそうな、音の聴こえそうな光り方をしていた。
「どうです?」と彼は胸を張った。「これが月光です」
「手品か何かなんじゃないの?」その放つ光は信じる以外の選択を許さないような確かなものだったけど、わたしはそう尋ねた。
「違いますよ」と彼は言った。「正真正銘、月光、月の光りです」
 その自信満々の言葉には頷く他なかった。
「綺麗ね」
「でしょう?」と彼。指にそれを付け、口に持って行った。そしてそれをペロリと舐めた。
「どんな味?」と聞くが早いか、彼の身体がみるみる輝き出した。
「おお」と彼も驚いている。「なるほど、こうなるのか」
 彼にわたしも舐めないかと薦められたが、わたしは遠慮しておいた。確かにどんな味なのか興味があったが、なんだか怖かったのだ。
 翌日、彼は職場に姿を現さなかった。その翌日も、さらにその翌日も。わたしは肩透かしを食ったような気分だった。なぜわたしに月光を見せてくれたのか、問い質したかったのだ。それなのに彼は職場だけでなく、心配した職場の人が彼の家まで行ったが、そこにも彼はいなかったという。彼は行方不明になってしまったのだ。
 一ヶ月が過ぎ、彼は解雇された。
 わたしは夜、彼が月光を捕まえた丘に行ってみた。するとそこに、輝く彼が佇んでいた。彼はわたしをに気付くと、困ったように微笑んだ。
「どうやら」と手をかざして見せる。「身体が月光になってしまったようで、月の明かりがなければぼくは存在できなくなってしまったようです」
「なぜ、わたしに月光を見せてくれたの?」
「だって、とても綺麗だから」と彼は微笑んだ。「今日の月は、とても綺麗ですね」
「ええ」
 それから、わたしは満月の夜になると町外れの丘へ行くようになった。月の光りを放つ彼に会いに。


No.349

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