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THE WORLD IS MINE

 男は死に瀕していた。それは男自身にもわかっていた。男は荒く、しかし弱い呼吸をしていた。足掻くことすらできなかった。どうにか生にしがみつこうとしたかったが、その力自体が、男の身体の中には残されていなかった。それは徐々に熱を失おうとしていた。ただの物体になろうとしていた。
 男の傍らに悪魔が現れた。悪魔は男の耳元に口を寄せた。
「お前は死ぬだろう」悪魔は言った。
「だろうな」と男は答えた。
「お前の魂と引き換えに、お前の望みを一つだけ叶えてやろう」と悪魔は言った。
 実のところ、この悪魔は成績不良の悪魔であり、定められた魂のノルマすら回収できないような落ちこぼれだったのだ。他の悪魔たちは口八丁手八丁、あの手この手を使って魂を集めてくるのに、この悪魔にはどうもそういうことができない。創造性に欠けるので魅力的な提案ができないし、口下手だから交渉も苦手だ。同期の悪魔たちはドンドン出世していって、今ではこんな外回りはしなくなった奴もいる。この悪魔はこの悪魔で、そうした焦燥だけはちゃんと感じるだけたちが悪い。それでいて腐ることもできないのだから、なおさらだ。
 そこで、この悪魔が目をつけたのが、瀕死の人間だった。瀕死の人間ならば、必ず願いがあるはずだ。魂を対価にしても惜しくないであろう願いが。命。命を助けてやればいいのだ。すぐに魂を回収することはできないかもしれないが、それでも契約は結べる。目の前にあるものと、遥か彼方にあるものを比べた時に、価値あるものと見られるのは目の前にあるものだ。たとえそれが同じ価値であったとしても。誰もがこの申し出に飛び付くに違いない。悪魔はそう思った。
「願い?」と男は息も絶え絶え言った。「願いか」
「ああ、なんでもいい」と悪魔は言った。命だろう?と悪魔は思った。さあ、言え、と。
「俺は死ぬだろう」と男は言った。「それはもう覚悟ができている」
悪魔はこれはどうも風向きが怪しいと思った。覚悟をする必要などない。生きたければ生きていられるのだ。
「俺の死んだ後も」と男は言った。「この世界が続くのが俺は悲しい。悔しい。だから、俺が死ぬのと同時に、この世界を消し去ってくれないか」
 悪魔は驚いた。まさかそんな願いが言われるとは思いもしなかったからだ。
「ちょっと待て」と悪魔は言った。男は衰弱していっていた。待つ時間など無い。男が死んでしまっては契約は結べない。「お前は混乱しているんだ」
 男は何も答えなかった。
「命を助けてくれと言え」と悪魔は男に言った。「言ってくれ。それと魂を引き換えにすると」男の呼吸は弱くなっていく。
 悪魔は迷った。迷っている時間はなかったから、それは一瞬のことであった。しかし、迷った。魂を得るならば、世界を消さなければならない。落ちこぼれの悪魔でも、この世界を消し去ることくらいわけなくできる。しかし、そうなったら、悪魔自身はどうなってしまうのだろうか。悪魔もこの世界の中に存在するものなのだ。そうすると、世界が消失するとともに、悪魔も消えてしまう。魂も、まあ、ノルマも消える。それでいいのか?いいはずがない。だが、魂は欲しい。喉から手が出るほど欲しい。
 男が息を引き取ろうとするその瞬間、悪魔は契約を結んだ。男の身体から抜け出して来た魂が悪魔の手元に吸い寄せられてくる。悪魔は息を飲んだ。世界を消さなければならない。悪魔が世界を消し去ろうとしたその瞬間、時間が止まり、悪魔の上司が現れた。
「お前はなんという契約を結んだんだ!」上司は悪魔を怒鳴り付けた。
「すいません」悪魔は縮み上がって謝った。「しかし、契約は契約。履行しないわけには」
「お前の間抜けな契約に消されてたまるか」と上司は言った。「仕方ない、わたしが解決してやろう」そう言うと、何やら呪いのようなものを唱えた。「これでこの男は独我論者になった。これで一件落着だ」上司はそう言った。
「独我論者?」
「この男にとって確かに存在するのはこの男自身の精神だけ、それ以外のすべて、この世界は幻かもしれないと思うようになったのさ。だから、この男にとっての世界は、この男にとっての世界だけ、消えるのはそれだけだ」
「それじゃ、契約不履行になりやしませんか?」
「不履行なものか!独我論者であるこの男の世界は、この男が死んだことで消えた。ちゃんと履行している。グダグダ言っていると、お前のことも消し去ってやるぞ」そう言うと、悪魔の上司は姿を消し、また時間が動き始めた。
 悪魔の目の前には男の死体があった。世界もまたあった。
「この話はここで終わる」と悪魔は言った。「話が終わるからには、その話の登場人物であるわたしの世界もここまでで終わる」

No.299

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