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シェパード

 父とぼくのあいだには微妙な溝があった。原因はぼくが高校を卒業するころに死んだ母だ。
 ぼくが高校を卒業する寸前、母は体調を崩した。父から聞かされた話だと、大腸にちょっとしたポリープがあり、それで体調不良が続いているのだという。手術でそれを取り除けば、母は元通りの母になる。
 端的にいうと、それは事実と異なる説明だった。
 母の本当の病名は大腸がん、それも末期のがんだった。
 父はそれをぼくに知らせず、母にも教えなかった。当人である母はどうかわからないけれど、ぼくはそれを信じた。楽天的なぼくである。信じない理由は無かった。入院がひと月になり、ふた月になっても状況が改善しなくても、ぼくは父の言葉を信じていた。母の入院する病院を毎日見舞い、病室で過ごすのが日常になった。高校を卒業して、大学に入学するまでの時期だったから、ぼくは時間を持て余していた。そうして日々母の姿を見て、それが改善どころか、悪化の一途をたどっていてもなお、ぼくは父の言葉を信じることにした。
 ぼくが大学に入学する直前に、母は死んだ。
 ぼくは父の嘘を恨んだ。もしも余命いくばくもないのであれば、それなりの覚悟をして日々を過ごせたのではないか?一日一日をいつくしみながら母と過ごせたのではないか?なんだか父の嘘が母を殺したような気さえした。本当のことを母に伝えるべきだったのではないか?そうすれば、母の覚悟も違ったのではないか?
 もちろん、父の嘘はぼくや母を動揺させたくないという思いからつかれた嘘だろう。父を問いただせば、きっとそう言うだろう。あるいは、母との付き合いが長いのはぼくではなく父だ。ぼくに見せる母親として以外の彼女の顔を知っている父としては、そうしたシビアな事態が母の心を簡単に折るのだと考えたのかもしれない。
 いまのぼくはこうも考える。もしかしたら、父自身が、その嘘を信じたかったのかもしれない。
 あるいは、ぼくもそれを信じたかったのかもしれない。現実を薄々察しながら、それに気づかないふりをしたかったのかもしれない。
 母が死に、家族は父とぼくだけになった。ぼくと父のあいだには微妙な溝ができていた。そこに母がいないというだけで、ただでさえ自分たちの在り方に変化を求められるような状況だ。それに、ぼくの中にあるわだかまりは消えなかった。
 それでも日々はつづく。ぼくはそれなりの成績で大学を卒業し、まあたいして人も羨まないような会社に就職し、家を出て、それなりに恋をしたり、失敗をしたりしながら日々を過ごした。同じ時間だけ、父は父の時間を生きた。それは確実な老いと言っていいだろう。父は確実に年を取っていた。定年退職し、ひとりで老後を過ごしていた。父が心配でないわけではないのだけれど、ぼくから父に電話をかけるのはまれだった。顔を合わせるのもお盆休みの墓参りと正月くらいだ。
 墓参りにはいつもふたりだけで行った。ほとんど言葉が交わされることは無く。なすべきことを済ませると、ぼくはそそくさと家に帰った。
 しかし、その墓参りは違った。ぼくが、結婚を考えている相手を連れて行ったのだ。なにからなにまでぎこちない墓参りになった。ぼくも、彼女も、父も、身の置き所に迷うような感じだった。ふたりだけで墓参りをしていた時と同じく、言葉が交わされることはほとんどなかったけれど、それとは違う居心地の悪さがあった。
 帰り道、一緒に食事でもということになり、酒が入ってやっとぎこちなさがほぐれてきた。父は上機嫌でぼくの子どものころのことを話した。彼女もそれを楽しそうに聞いていた。ぼくは胸を撫で下ろしていた。結局のところ、その場におけるぎこちなさの責任者はぼくだったのだ。父と彼女の橋渡しをすべきぼくの不手際が呼んだぎこちなさ、それが酒の力を借りたとはいえ、解消されていく。
「こいつは動物で喩えるとシェパード」と、父が不意に言った。いったいどんな会話をしていればぼくを動物に喩えることになるのかはわからないけれど、父はそう言った。彼女はきょとんとしていた。ぼくも一瞬、どうして急にシェパードなんて単語が出て来たのかを訝った。
 ぼくにはわかった。それはぼくが幼いころ好きだった犬種だ。もしかしたら、幼いぼくは自分をそれに喩えたのかもしれない。父はそのことを覚えていたのだ。いや、覚えていたわけではない。父にとっては、あの頃の幼いぼくと、いまのぼくは変わらず、地続きの存在なのだ。過去は失われてしまったなにかなのではなく、いまに繋がるものなのだ。そう思った。
 ぼくは父の枯れ枝のような指を見た。幼いぼくの手が握っていた、その手。そして、ぼくはそのぬくもりを思い出そうとした。


No.537


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