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ちょっと、ピンボケ

 朝、目を覚ますと、世界がボヤけて見えた。目をこすった。そうしてもう一度あたりを見回してみる。効果なし。目をつぶる。開く。効果なし。間違いなく世界がボヤけている。眠っている内に何があったのか、目に違和感らしいものはない。痛くも痒くもないのだ。ただ、ボヤけてよく見えないだけだ。あるいは、世界の方になにか問題があるのではないと思い込もうとしたが、無理な話だった。世界がボヤけるのは世界がその輪郭を失い掛けているからではない。ぼくの目になにか問題があるのだ。残念ながら。
 先に起きていた妻にそのことを話すと
「近眼になったんじゃない?」と言う。
「一晩で?」と、ぼく。
「一晩で髪が真っ白になってしまった人だっているわ」
「誰?」
「さあ?」と、妻は肩をすくめた。
 まずもって近眼なんてことはあるまい。断じて一晩で近眼になることなどない。視力には自信があったのだ。学生時代の健康診断はある意味ぼくの見せ場の一つだった。それは足が速い人間にとっての体育祭のようなものだ。
「右」
「これは?」
「下」
「これは?」
「上」
「おお!」
 そして、ついに最も小さいものが示される。
「これは見えないだろう?」と、視力検査の係の人も言っているようだ。級友たちの誰もが息を飲む。
「左です」
 周りの連中から感嘆の声が漏れる。係の人は心なしか悔しげだ。気のせいかもしれないけれど。ああ、なつかしき思い出、それが急に近眼になるはずがない。断じてない。
「あの時計の針も見えない」と、ぼくは壁に掛けてある時計を指さして言った。普段時刻を確認する時計だ。
「あら、本当?」と、妻。
「何時だい?」
 妻が口にした時刻は、もうとっくに家を出ていないといけないそれだった。
「なぜ教えてくれない?」と朝食もそこそこ、慌ただしく身支度を済まし、家を飛び出す。
「いってらっしゃい」
 散々な一日の始まりだった。どうにか遅刻はせずにすんだものの、目が良く見えないないものだから、些細なミスが続き、そうすると苛立ちが募り、さらにミスを犯す。完全な悪循環だ。目がよく見えないことがはたしてどれだけミスの原因になったか、もしかしたら、ミスの原因として挙げれば気が楽になるからそれを槍玉に挙げているだけかもしれない。単純に、注意深さが足りないのかもしれないし、能力が不足しているのかもしれない。とはいえ、目が良く見えないことは不便なことに変わりはないわけで、とにもかくにも、仕事が終わり次第すぐに眼科に行くことにした。
「これは?」
「わかりません」
「これは?」
「わかりません」
「これは?」
「わかりません」
 屈辱的である。ああ、輝ける栄光の時代。
「かなりの近視ですね」と言った眼医者がなんだかニヤニヤして馬鹿にしているように見えて、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。もちろん、眼医者はそんなにニヤニヤしてなどいないだろうし、馬鹿にする気も毛頭無いのはわかっている。視力の悪い人間を見るたびに馬鹿にしていたら、眼医者としてやってはいけまい。
「近眼になったってことですか?」
「近眼なんです」
「一晩で?」
「そんな馬鹿な」と眼医者は笑った。「一晩で近眼などなりはしませんよ。大方、目の悪くなっているのに気付かずにこれまできたのでしょう」
「何か他に異常はないんですか?」
「ありません」眼医者のキッパリ断言する口調にはこれ以上異論を挟む余地はなかった。だから、口を挟まなかった。
「なんてことだ」と、ぼくは嘆いた。
「そんな大袈裟な」と言って眼医者は苦笑した。眼医者にはこの落胆が冗談にうつったらしい。「いい眼鏡屋を紹介しますから、眼鏡を作りなさい」
 適当にフレームを選び、眼鏡を作った。そして、失意の中、帰宅した。
「お帰りなさい。あら」
「なに?」
「眼鏡」
「悪いか?」
「似合ってるじゃない」
 夕食は黙々と食べた。眼鏡のレンズの中に入ったものしか輪郭がはっきりと見えないのは、視野が極端に狭まったようなで、なんだか手足を縛られているような感じだ。これはこれで実に不便なことだと思った。やけにジロジロと妻がこちらを見ているような気がした。眼鏡の顔が目新しいか、馬鹿にしているのか。
「なに?」
「いや」
 ついつい妻の顔色を窺ってしまう。
 と、ふと気付いた。眼鏡を通して見る妻の顔がやけに新鮮に見えたのだ。ああ、こんな顔をしていたのか、と妙な納得をした。ぼくはまじまじと妻の顔を見つめた。眼医者の言うように、前から目が悪くなっていたのかもしれない。
「なによ?」と妻が笑った。
「なんだか、ひさしぶりに会ったみたいな気分だ」
「ひさしぶり?」
「顔を忘れてた」
「失礼ね」と妻は怒っているふりをした。ぼくは妻を、ただじっと見ていた。


No.394


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