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わたしはドアマットです。

 わたしはドアマットです。ドアの前に置かれている、あのマットです。わたしのこと、ご存知ありませんか?無理もないかもしれません。あなたが悪いわけではありません。誰も、わたしのことなど気にも留めません。それはそうです。わたしはただドアの前に置かれ、人はわたしの上を通り過ぎて行くだけ。誰も、わたしがそこにいることになど、気づきもしないでしょう。恨み言ではございません。わたしはドアマットです。わたしの役目は、踏みつけられること。それが泥だらけの靴だろうと、ずぶ濡れの長ぐつだろうと、ピカピカの革靴だろうと、薄汚れたスニーカーだろうと、コツコツ高い音を鳴らすハイヒールだろうと、どんな靴でも、どんな足でも、それを受け止めることだからです。泥を擦りつけられることもあれば、水を拭われることもあるでしょう。しかしながら、それがわたしの役目です。
 あなたはわたしを惨めだと憐れみますか?わたしはまったくそんなことは思っていません。だから、わたしを憐れまないでください。憐れまないで大丈夫です。わたしはドアマットです。踏みつけにされるのがわたしの役割であり、別にそれが光栄だとか、わたしの喜びだとかは思いませんが、そういうものなのだと、ドアマットとはそういうものなのだと、納得しているのです。
 いいえ、諦めているわけではありません。例えば宝石とか、貴金属のように、存在するだけでありがたがられるものや、掃除機や、洗濯機のように、その働きで感謝されるものをうらやむ気持ちがないわけではありませんけれど、ドアマットにはドアマットの本分があり、それをまっとうすることこそが、幸せだと、わたしは思うのです。わたしはドアマットです。真珠の首飾りでもなければ、全自動洗濯機でもない。ドアマットです。
「君はそこで何をしているの?」男の人がそう話しかけてきました。いいえ、そんなことがあるはずがありません。ドアマットはドアマットであり、踏みつけにされるだけの存在であり、それに何か気を留め、話しかけてみようなどと思う人がいるはずはありません。
「聞こえているんでしょ?」男の人はそう言います。わたしの後ろの誰かに話しかけているのでしょうか?振り返ってみても、誰もいません。
「君だよ、君」
 わたしですか?
「そう、君だ。君はそこで何をしているの?」
 何を、って見てわかりませんか?わたしはドアマットです。ドアマットとして存在し、ドアマット的な役割を果たすべく、ここで踏みつけにされているんです。
「何を言っているの?」男の人は首をかしげました。「君は人間だよ」
 え?
「君は人間だ」
 違います。ドアマットです。ドアマットだから、踏みつけにされるんです。人間じゃありません。
「君は人間だ」男の人はそう繰り返しました。
 やめてください。わたしはドアマットです。だから、踏みつけにされてもなんとも思わない。もしも人間だったら、わたしは悲しい気持ちになってしまうでしょう。
「君は人間で、悲しい気持ちになってもいいし、怒ってもいい」男の人はそう言いました。「でも、ドアマットじゃないから、誰かに踏みつけられていいわけがない」
 人間?
「そう」
 わたしが?
「そうだよ」
 そうだった。わたしはドアマットなんかじゃなくて、人間だ。涙があふれてきた。悲しい、痛い、苦しい。
「それが人間だよ」
 嬉しい。わたしは人間だ。そう思うと、わたしの姿は見る見るうちに人間になりました。まるで、魔法をかけられたみたいに。
「あなたは何者?」と、わたしは尋ねました。「魔法使い?」
首を横に振ると微笑み。「いいや、ただの人間さ」

No.319

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