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月を拾う

 夜道をひとりで歩いていると、月を拾った。月の出ていない、暗い夜だった。それもそのはずだ。本来大地を照らしていてしかるべき月は、わたしに拾われ、その手のなかにあるのだ。それは夜空に浮かぶときと変わらず、さやさやと静かに輝いている。月の手触りはざらついて、仄かに温かった。
 わたしは辺りを見渡した。わたしが月を拾ったのを目撃していた人がいないかどうか確認したのだ。誰もいない。人っ子ひとりいない。野良犬も野良猫もいない。誰も目撃していない。わたしが月を拾ったところを見たものはいない。それにも関わらず、わたしはなぜかこっそりそれをポケットに入れた。わざとらしく、何でもない、自分の持ち物を落としたのに気付いて、それを拾ってポケットにしまった、という風を装って。
 帰り道は不安で不安で仕方がなかった。誰かに肩を叩かれるかもしれない。
「さっきポケットに入れたものを出してもらおうか」
 目撃者はいないと思っていたが、誰かに見られていた、そんなことがあるかもしれない。
 交番の前を通る時など明らかに心拍数が高まった。挙動不審だと呼び止められるかもしれない。
「ちょっと、君」
「持ち物を調べさせてもらえますか?」
 そして、わたしのポケットから月が出てくるのだ。
「これは」
「なんてことだ」
 わたしは逮捕されるだろう。どんな罰が待っているのか。それは単に拾ったものを自分のものにしたのと同じ罰だろうか。それがどれほどの罰なのかはわからないが、わたしが持ち逃げしようとしたは、月なのだ。それは軽い罰で済むはずがないだろう。月はみんなのもので、つまりそれを独り占めしようとすることは、全ての人から月を盗むのと同じことだ。
 だからこそ、わたしはそれを独り占めしたのだ。それは全ての人々のものなのだ。こんなものを独り占めできる機会など無い。どんな絶世の美女を恋人にするよりも遥かに勝る。世界最大のダイヤモンドよりも貴重だ。わたしはそれを部屋に持ち帰ると、机の引き出しの奥にそっとしまった。誰にも、当の月自身にも気付かれないように、そっと。
 翌日の夜になった。世界はまだ月の失われたことに気付いていなかった。わたしはそれなりの騒動を覚悟していたから、少し拍子抜けした気分だった。少なくとも、大きな騒ぎにはならなかった。それどころか、誰もそのことに気付いていないようだった。毎夜、空を見上げているであろう天文学者たちですら。おそらくみな、新月の夜なのだと思ったのだろう。しかしながら、それはいつか露見することなのだ。新月の夜が毎夜続くわけはない。人々は月の無いことに気付くだろう。わたしはドキドキしながらその事実、月が昇らないということに世界が気付くのを待った。それはわたしの犯罪の露見する瞬間なのかもしれないが、それでもその瞬間を心待ちにした。世界が混乱に陥る瞬間を。
 ところがいつまでたっても、誰もそのことに気付かない。誰も月の夜空に浮かばないことに気付かないのだ。毎夜毎夜、夜空は月を欠いていた。しかし、それの欠けていることに誰も気付かない。わたしは悲しくなった。誰もそれに関心が無いのだ。誰も夜空を見上げないのだ。そして、机の引き出しの奥にしまった月を出してきて、その輝きを見た。拾った時と変わらず、それはさやさやと輝いていた。
「君は誰にも必要とされていないみたい」わたしは月に囁きかけた。そして、それをそっと夜空に放った。引き出しの奥よりも、夜空の方が似合うし、どこにあろうと、それはわたし一人のものなのだ。

No.217

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