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山と女たち

 ひょんなきっかけで、山に猟銃を担いで踏み入ることになった。以前から付き合いのあった人が、熊を撃ちに行くから一緒に来いと言う。
「免許か何かはいらないのかね?」と尋ねると、すぐに手配をしてくれ、呆気にとられるくらい簡単に銃を撃つことになった。
「本当にいいのかね? こんなに簡単で」
「まあ、そんなものだよ。もちろん、実際にはそんなに簡単にはいかんだろう。しかしながら、これは作り話だ。そうでなければ、話が進まん。ほら、さっさと話を進めたまえ」
 お言葉に甘えて話を進めよう。
 山の麓の宿場に泊まった。古びた建物で、今にも崩れ落ちそうに見えた。潔癖症のわたしである。見ているだけで体がむず痒くなってくる。
「本当にここに泊まるのかね?」と尋ねると、不思議そうな顔で「なぜ?」と返された。
「いや」とだけ言っておいた。
 幸い室内は外貌ほどくたびれておらず、神経質なたちの自分でもこれならどうにか過ごせそうだとひとまず胸を撫で下ろした。布団も清潔そうだ。煎餅布団を思い描いたが、どうやらそんなこともない。
 宿には幾人かの女が働いていた。それが果たして実際のところ幾人いたのかははっきりわからない。何しろどの女も同じような風貌に仕草をしているもので、誰が誰だか区別がつかないのだ。まるで獣の見分けのつかないようなものである。
「姉妹だろうかね?」
「さてね、そんな話は聞いたことがないが」
 折を見て、当人たちにたずねてもみた。
「お前さんたちは、みな姉妹なのかね?」
 ところが、女たちはクスクスと笑い合うばかりで要領を得ない。もちろん、こちらからの頼みにはしっかり答えてくれる。まあ、それならそれでいいかと、次第に女たちを構うのはやめることにした。
 そうして、二三日ぶらぶらし、土地の旨いものや温泉場でくつろいだ後に、ついに山に入ることになった。
 その時あてがわれて、初めて銃を触った。正直な話、それはもっと何か衝撃的な何かをもたらすのではないかと予想していたのだが、実際手にしてみるとなんのことはない。ズッシリと重くはあるが、それは人間の拵えたものであることは変わりなく、例えば釣竿やステッキを持つのと変わらなかった。
「さて、行こうか」
 猟犬が二頭先導する形で山を進む。彼らはガサガサと下生えの草を掻き分けて進む。天気の良い日だった。木漏れ日がキラキラと輝いていた。なんとも長閑だ。
と、そこで、背後の草むらがガサガサと音を立てた。一瞬で緊張が走る。振り向き、反射的に銃を構える。
 それで、引き金に指がかかってしまったらしい。銃が不意に、正に不意に火を吹いた。銃声が木霊する。狙いを定めたわけではなかったが、確かな手応えがあった。
草むらを検分してみると、そこに倒れていたのは、熊ではなく、宿にいた女の一人だった。女がなぜそこにいたのかはわからない。弾は女の胸を完璧に撃ち抜いていた。女は目を見開いたまま死んでいた。目を閉じてやろうとあれこれ試したが、できなかった。
 初めて人を殺してしまったことになったが、それは思ったほどの感慨をもたらしはしなかった。


No.666


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